歴史
高倉寺は、その起源を慶雲2年(705年)に遡ることができ、当時の僧・行基が文武天皇の勅命を受けて創建したと伝えられています。さらに平安時代末期には高倉天皇より「大修恵山高倉寺」の名を授けられた歴史ある寺院です。
しかし、応仁の乱や織田信長による焼き討ちにより、寺院は一度焼失しました。その後、慶長年間の末期に小出三尹(こいでみつただ)により再建され、現在の高倉寺へと至ります。また、室町時代の絵仏師、太輔法眼清賢が制作した「法起菩薩曼荼羅図」を所有しており、この曼荼羅図は堺市指定の有形文化財に指定されています。
寺院の特徴と「法起菩薩曼荼羅図」
文武天皇の勅命により行基が自作の薬師尊像を安置したと伝えられる高倉寺には、真言宗における古刹としての由緒があり、現在も多くの参拝者が訪れています。
「法起菩薩曼荼羅図」について
高倉寺には「法起菩薩曼荼羅図(ほうきぼさつまんだらず)」が安置されています。この曼荼羅図には、非常に珍しい仏様である法起菩薩が描かれています。六本の腕と五つの眼を持ち、岩の上に立つ姿が特徴的で、表情には怒りが込められており、修験道において信仰された金剛山の仏とされています。
この「法起菩薩曼荼羅図」は、室町時代に活躍した絵仏師・太輔法眼清賢の作品とされ、裏打紙に記された銘文から南都(現在の奈良県)の出身であることが推測されています。作品自体が大変貴重で、市の指定有形文化財として大切に保存されています。
文化財
高倉寺宝積院は、歴史的にも文化的にも貴重な文化財を所蔵しており、多くの人々にその価値が伝えられています。
大阪府指定文化財
- 星曼荼羅図(宝積院)
堺市指定文化財
- 法起菩薩曼荼羅図(高倉寺)
霊場巡礼
高倉寺宝積院は、複数の霊場巡礼において札所として知られており、参拝者が多く訪れるスポットとなっています。
河泉二十四地蔵霊場
- 23番札所:法道寺
- 24番札所:宝積院
和泉霊場
- 18番札所:観音寺
- 19番札所:宝積院
- 20番札所:高倉寺
- 21番札所:多聞寺
アクセス情報
高倉寺宝積院へは、泉北高速鉄道線の泉ヶ丘駅から徒歩10分の距離に位置しており、周囲の住宅地や緑豊かな風景に囲まれた静かな環境にあります。
泉ヶ丘駅から東南ニュータウンの団地を抜けると、高倉寺のある高台に到達します。緑豊かな場所に佇む寺院で、訪れる人々に穏やかな雰囲気を提供しています。