妙国寺の歴史
開創と発展
妙国寺は永禄5年(1562年)に創建されました。阿波国から兵を起こし畿内を支配していた三好長慶の弟、三好実休が日珖に帰依し、東西三丁南北五丁の土地と寺領500石を寄進したことで始まります。しかし、久米田の戦いで実休が戦死したため、当初は寺の建物は未完成でした。
その後、日珖の父である堺の豪商・油屋常言とその兄の常祐が協力して、永禄11年(1568年)に本堂や伽藍を建立しました。寺名は日珖の師である日祝の号「妙國院」からとられ、後に勅願所として皇室より正式に認定されました。
大坂夏の陣での焼失と再建
元亀2年(1571年)に本堂が竣工し、天正11年(1583年)までに14の坊や学問所を備えた伽藍が完成しました。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方の大野治房隊の襲撃を受け、全山が灰燼と化しました。
その後、寛永5年(1628年)に再建が開始され、本堂をはじめとする堂宇や三重塔などが順次再建されました。江戸時代を通じて妙国寺は隆盛を極め、堺市の名所として親しまれていました。
太平洋戦争による焼失と再建
しかし、1945年の大阪大空襲により再び全焼し、経蔵と大蘇鉄を除くすべての建物が焼失しました。戦後の復興により1973年に本堂が再建され、現在の姿に至っています。
霊木・大蘇鉄の伝説
夜泣きのソテツ伝説
妙国寺の境内にある樹齢1100年の大蘇鉄(だいそてつ)は、国の天然記念物に指定されている名木です。このソテツには、織田信長との興味深い伝説が伝わっています。天正7年(1579年)、信長はこのソテツを安土城に移植しましたが、毎夜「堺妙國寺に帰りたい」と泣いたため、怒った信長は「切り倒せ」と命じました。斬りつけられたソテツは血を流し、恐れを感じた信長は妙国寺へ返還したといいます。
蘇生の祈願と宇賀徳正龍神
妙国寺に戻った大蘇鉄は衰えていましたが、日珖が法華経一千部を読誦し祈願すると、満願の日に宇賀徳正龍神が現れました。宇賀徳正龍神は「鉄分を与えれば再び元気を取り戻す」と告げたため、鉄屑を根元に埋めるとソテツは再生したと伝わります。以来、このソテツは安産と災難除けの守り神として信仰を集めてきました。このソテツの葉は、長い部分で約8メートルに達し、千年以上にわたりこの地を見守ってきたと伝えられています。
枯山水庭園とソテツの美
妙国寺の庭園は、日本で唯一とされる「ソテツの枯山水庭園」として整備されています。江戸時代後期に建立されたこの庭園は、和泉名所図会にも記録されており、その美しさから堺を代表する名所として親しまれています。庭園内には、千利休が寄贈したとされる六地蔵灯篭や瓢箪型の手水鉢などが配されています。
堺事件と妙国寺
フランス軍との衝突
慶応4年(1868年)、堺港に上陸したフランス軍の水兵が市内で無法な振る舞いをしたことから、土佐藩の警備隊とフランス兵の間で銃撃戦が発生しました。この「堺事件」では、フランス兵11名が死亡し、事件は国際問題となりました。
土佐藩士の切腹
事件の責任を負うため、土佐藩士20名に切腹が命じられ、うち11名が妙国寺で切腹しました。この悲劇的な出来事は、現在も妙国寺に残る供養塔とともに語り継がれています。切腹を遂げた場所には、「とさのさむらいはらきりのはか」と刻まれた碑が建てられ、今も多くの参拝者が訪れています。
境内の見どころ
本堂
本堂は1973年(昭和48年)に再建され、荘厳な雰囲気の中で仏像が祀られています。
宝物資料館
寺院の歴史や文化に触れられる宝物資料館も併設されています。史料館には、三好実休の肖像画や日珖上人の経巻、豊臣秀吉の朱印状など、多くの貴重な史料が展示されています。堺事件の様子を伝える資料も豊富に揃っており、歴史愛好者にとっては興味深いスポットです。
伝三重塔柱跡
かつて存在した三重塔は、大坂夏の陣の兵火で焼失し、後に再建されましたが、1945年の空襲で再び焼失しました。現在もその名残が見られ、当時の雄大な姿を偲ぶことができます。
庭園
境内には小堀遠州によって作庭された枯山水庭園があり、平庭林泉回遊式の風情ある空間です。特に蘇鉄が用いられた枯山水庭園は日本唯一であり、堺市の指定名勝にもなっています。
枯山水庭園は室町時代に作られたもので、江戸時代からこの地の名所として親しまれ、近年復元整備が行われています。庭園には、家康が称賛した蘇鉄を中心に、駿府の街を模したとされる石組みや千利休寄贈と伝わる六地蔵灯篭など、見どころが満載です。蘇鉄を配した平庭林泉回遊式庭園として、江戸時代後期の姿を再現したものです。
その他の見どころ
- 経蔵 - 貴重な仏教経典が納められている建物です。
- 徳正殿 - 宇賀徳正龍神を祀っています。
- 土佐十一烈士供養塔 - 幕末の堺事件に関連し、境内にある供養塔です。
- 本坊、鐘楼、佛心殿、日蓮聖人像 - 境内に点在する建物や仏像が訪れる人々を迎えます。
与謝野晶子・正岡子規の歌碑
妙国寺近くには、与謝野晶子と正岡子規の歌碑があります。正岡子規は夏目漱石とともに堺女学校を訪れた際、妙国寺を訪れ歌を詠んだとされています。文学的にも価値のある場所として知られています。
唱歌に登場する妙国寺
妙国寺は1900年(明治33年)発売の「鉄道唱歌第5集」にも歌い込まれています。「蘇鉄に名ある古寺」として登場し、堺の名所として歌われた歴史的な場所です。
新藤五国光と備前長船住長義
妙国寺には、刀工として有名な新藤五国光の短刀「国光」や、備前長船住長義(朱銘長義)の脇指などが収蔵されていました。これらは重要文化財に指定され、現在は堺市博物館に寄託されています。
文化財
重要文化財
妙国寺には国指定の重要文化財が複数あります。例えば、短刀「銘国光」(新藤五国光作)や脇指「朱銘長義」(備前長船長義作)など、歴史的に価値のある品々が堺市博物館に寄託されています。
国指定天然記念物 - 妙国寺のソテツ
妙国寺のソテツは樹齢1,100年とされる歴史的な木で、1924年に国の天然記念物に指定されました。大蘇鉄とも呼ばれ、堺市を象徴する霊木として、多くの人々の尊敬を集めています。
堺市指定有形文化財
堺市の指定文化財として、「己行記」や「行功部分記」など、歴史を物語る貴重な書物も保管されています。これらの文化財は堺市博物館に寄託され、訪れる人々に当時の様子を伝えています。
アクセス
阪堺電気軌道阪堺線「妙国寺前」停留場より徒歩5分です。
妙国寺は、大阪・堺の歴史と文化を感じられる寺院です。樹齢千年を超える大蘇鉄や、切腹した土佐藩士の供養塔など、歴史的価値が高い遺構が数多く残されています。歴史に関心がある方や、パワースポット巡りを楽しむ方にとって、妙国寺は見逃せない名所と言えるでしょう。