かつては本願寺派の本山とされたこともあり、本堂、鐘楼、太鼓堂、表門などは国の重要文化財に指定されています。山号は金凉山で、「ぼっかんさん」という愛称で親しまれています。
起源は774年に行基によって創建されたと伝えられる庵寺から始まり、本尊の阿弥陀如来立像も行基作とさます。しかし、長い間、住職がいないまま放置されていました。
応仁年間(1467年 - 1469年)に本願寺の法主蓮如が立ち寄って教義を説いたことから、地元の門徒が1545年に根来寺から右京坊(卜半斎了珍)を住持として招き、庵寺を再興させました。
しかし1577年の織田信長による雑賀攻め(紀州征伐)の際に織田信忠によって焼き討ちされて焼失。
1580年、織田信長と本願寺法主顕如が和睦して石山合戦が終わり、了珍と門徒たちによって復興。1582年に羽柴秀吉から寺内諸役免許の朱印状が了珍に下付されました。
1583年、顕如は貝塚本願寺とし、新たな本山としました。1585年に本山が天満本願寺へ移るまでの約2年間、貝塚本願寺は貝塚御坊とも呼ばれて本願寺教団の一大拠点となりました。
貝塚御坊は1607年に西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられました。
1610年には、徳川家康より寺内諸役免許を授けられ、明治維新まで卜半(ぼくはん)家による寺内町の支配が続きました。
寺の周辺には、土蔵や格子戸などが残り、かつての繁栄ぶりを偲ばせます。
願泉寺には江戸時代の伽藍がそのまま残され、建造物のほとんどが国の重要文化財、市の指定文化財に指定されています
境内本堂(重要文化財)は1663年に再建。書院は江戸時代中期の建立。経蔵は1688年に再建。
鐘楼(重要文化財)は貝塚市森の青松寺の鐘楼で、1702年の築。前の鐘楼が空襲で焼失したので1948年に移築しました。釣られている銅鐘は1224年の作です。
太鼓堂(重要文化財)は1719年の建立。井戸屋形は1818年の建立。目隠塀(重要文化財)。表門(重要文化財)は1679年に再建。
南海本線「貝塚駅」から徒歩で5分
貝塚市役所前駅(出口)から徒歩約15分