歴史と地理
奈良時代の創建
土塔は、奈良時代初期に和泉監大鳥郡土師郷にあった行基建立の四十九院の一つ、大野寺の境内に建設されました。『行基年譜』によると、神亀4年(727年)に行基が大野寺と大野尼院を創建した際に、この塔が起工されたとされています。また、鎌倉時代の『行基菩薩行状絵伝』には、塔の頂部に露盤と宝珠が描かれ、「大野寺 御年六十歳 神亀4年 十三重土塔在之」と記されています。
大野寺の歴史と再興
大野寺は、室町時代の火災で一度消失し、江戸時代に再興されました。現在の大野寺は真言宗に属し、江戸時代中期に建てられた本堂が現存しています。現在の寺域は狭小で、かつての規模をしのばせるものはありませんが、境内には創建当時の礎石が残されており、当時は大規模な寺院であったと考えられています。
土塔の地理的特徴
土塔がある土師郷(現・土塔町)は、泉北丘陵の台地上にあり、水利の便が非常に悪い場所でした。塔は標高50メートルほどの丘陵に位置し、南方からの視界が良好です。この地理的条件も、仏塔としての土塔の特徴に影響を与えています。
史跡指定と保護活動
土塔の史跡指定
大正時代初期から土塔周辺で文字瓦が発見され、研究が進められてきました。1946年(昭和21年)に私有地であった土塔の一部が破壊され、1952年に大阪府教育委員会によって史跡の仮指定と緊急調査が行われました。その結果、古墳ではなく仏塔であると結論付けられ、1953年には国の史跡に指定されました。
発掘調査と保護活動
1997年から2003年にかけて、土塔の周辺で史跡整備に伴う発掘調査が実施されました。これにより、土塔の形状や構造に関する新たな発見がありました。塔の各辺は正確に東西南北に一致し、基壇の一辺は53.1メートル、高さは8.6メートル以上と推定されています。また、インド由来の仏塔の影響が見られる形状を持つことが確認されました。
土塔の構造と建造技術
階段ピラミッドの形状
土塔は13重の階段状ピラミッドであり、四角錐形で頂部が平らです。発掘調査では、各層の奥行が上層に行くほど狭くなっており、低い塔でも高く見える視覚的効果があることが分かりました。
瓦の使用と瓦窯の発見
土塔の各層には大量の瓦が使用され、瓦窯が北西約170メートルの場所で見つかりました。この瓦窯は「大野寺瓦窯」と名付けられ、当時の建造物がどのように瓦で装飾されていたかがわかります。
出土物とその重要性
重要文化財に指定された出土物
土塔からは奈良時代から江戸時代にかけての瓦や絵画が1171点も出土しており、そのうち1082点は国の重要文化財に指定されています。特に、瓦には「神亀4年」や「神亀5年」といった文字が刻まれており、土塔の築造時期や修復の歴史を物語っています。
文字瓦とその内容
出土した文字瓦には、当時の人々の名前や願文などが刻まれています。これらの文字瓦は、仏教信仰や寺院の建設に携わった人々の情報を伝える貴重な資料です。
発掘調査からの考察
灌漑池と土塔の関係
発掘調査によって、行基が行った地域開発と土塔の築造が密接に関連していることが判明しました。土塔の北方に位置する「菰池(こもいけ)」は、行基が灌漑のために造成した池と考えられており、これにより土塔の周辺での農業生産が支えられていました。
地域の利便と宗教施設の建設
『行基年譜』によると、土師郷では土塔の築造以前に灌漑池が整備されており、その後に寺院が建てられたとされています。行基はまず地域住民の生活の基盤を整え、その上で仏教の教えを広めるために寺院や仏塔を築造しました。
まとめ
土塔は、奈良時代の信仰と地域開発が融合した象徴的な仏塔です。その歴史的背景や独特の形状、出土物が示す情報からは、当時の人々の信仰心と行基の影響力を伺い知ることができます。土塔は、日本国内でインド仏教文化の影響を受けた稀有な建造物であり、歴史的価値が非常に高いものです。現在も堺市中区において、その歴史と文化が大切に保護されています。