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大津神社(若宮町)

(おおつ じんじゃ)

大津神社は、もともと若宮八幡と呼ばれていましたが、明治41年に周辺の4社を合祀し、現在の名称に改称されました。 境内には江戸時代前期の石造物が多く、特に寛永元年(1624年)の石灯籠2基や、寛永20年銘の石鳥居が見られ、歴史の重みを感じさせます。

神社の起源と由緒

大津神社の起源は明らかではありませんが、『土佐日記』に登場する「小津の泊」に祀られていた小祠がその原型であったと伝えられています。 鎌倉時代には八幡大神が勧請され、「若宮八幡宮」と称されるようになりました。 そして明治41年、宇多神社、神明神社、菅原神社の三社が合祀され、事代主神社を境内社として統合し、「大津神社」として総鎮守に位置づけられるようになりました。

大津の由来

「大津(おおつ)」はもともと「小津(おづ)」と呼ばれていたようで、これは「国津・国府津」から転じたものと言われています。 和泉国の国府の外港であったことから「小津」と名付けられたと考えられており、古くから良港として知られていました。 『土佐日記』には「小津の泊」として登場し、また『更級日記』にもその名が記されています。

歴史の変遷

土佐日記が承平5年(935年)に書かれたころには「小津」と呼ばれていましたが、更級日記が記された康平2年(1059年)頃には既に「大津」と呼ばれるようになっていたことがわかります。 その後、明治22年(1889年)の町村制施行により泉郡大津村となり、大正4年(1915年)には町制が施行され「大津町」となりました。 昭和17年(1942年)には市制が施行され、現在の「泉大津市」としてその名が伝わっています。

若宮八幡宮の由緒

小津の泊りは、古くから畿内地方における良港として知られており、『土佐日記』や『更級日記』などにその記録が残されています。 また、和泉府中に通じる道があり、この道は「御幸道」「みゆき道」「勅使道」などと称されてきました。 神功皇后が府中へ御幸した際、小津の泊りからこの道を通行したと伝えられています。

大津神社の境内は古くから「鴉の森」と呼ばれており、大津町史には、神功皇后の御幸の際に村人たちが黒装束で送迎し、烏のような姿が印象的であったことが由来であると記されています。

式内粟宮の由緒

『続日本紀』に記される粟氏は、忌部(いんべ)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」などに勢力を誇っていました。 この粟氏の一派が大津に移住し、忌部氏一統の祖神、天太玉命を祀ったのが「粟神社」の始まりとされています。 天太玉命は、天岩戸の前で卜占をし、大神の出現を祈願した神であり、古来より占いや祭具の神として尊崇を集めてきました。

粟神社の歴史

『延喜式』にも記されている粟神社は、かつて地方一円の鎮守として栄え、式内社として広く信仰を集めていました。 しかし、明治時代の初期には小祠のみが残る状態となり、明治41年に大津神社に合祀され、社殿も現在の境内に移築されました。

事代主神社の由緒

事代主神社は、天正年間に藤林定吉与左衛門と眞鍋某が崇敬していた摂津西宮の神霊を勧請して祀ったものです。 また、事代主神社の末社には広田神社と住吉神社があります。 広田神社は摂津広田村から勧請され、住吉神社の由緒は不詳ですが、商工業繁栄の守護神として崇敬されています。

宇多神社の由緒

宇多神社の由緒に関する文献は現存していませんが、伝承によれば、小津の泊の一地点に海上風波を鎮護する神社として、素盞嗚尊が祀られたのが始まりとされています。

神明神社の由緒

天正年間に発生した根来戦乱の際、淡輪大和守徹斎が一族とともに大津に移り、避難生活を送ったことが神明神社創建の契機となったと伝えられています。

以上が大津神社および関連社の由緒・歴史の概要です。 この神社は、和泉の歴史と共に人々に守られ、崇敬されてきた古社であり、訪れる人々は古の歴史を感じながら、心を癒すことができる場所となっています。

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名称
大津神社(若宮町)
(おおつ じんじゃ)

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