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石津太神社

(いわつた じんじゃ)

石津太神社は、大阪府堺市西区に位置する由緒ある神社です。この神社は、古代からの歴史を持ち、堺市堺区石津町にある石津神社(いしづじんじゃ)と並び、和泉国大鳥郡の「石津太神社」として古代の式内小社に数えられています。いずれの神社も「日本最古の戎社(えびすしゃ)」を名乗っており、長い歴史と伝統を誇っています。

祭神

石津太神社では、主祭神として蛭子命(ひるこのみこと)八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)天穂日命(あめのほひのみこと)が祀られています。また、天照大神(あまてらすおおみかみ)も配祀され、神社合祀によって建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)も祀られています。これにより、地域の人々に豊かな実りと守護の恩恵がもたらされると信じられています。

神社の歴史

この地域はかつて浜辺であったため、古くから海に関わる神話や伝承が多く残されています。伝説によれば、伊奘諾命(いざなぎのみこと)と伊奘册命(いざなみのみこと)によって海に流された蛭子命が漂着し、五色の神石をこの地に置いたと伝えられています。蛭子命が漂着した場所は「石津の磐山」と呼ばれ、五色の石が置かれた場所が「石津」という地名の由来となりました。

孝昭天皇7年(紀元前470年)に、勅命により蛭子命を祀る社殿が造営され、さらに八重事代主命や天穂日命も合祀されました。平安時代以降も朝廷からの厚い崇敬を受け、幾度も御幸の記録が残されています。しかし、元和年間以後、兵火によって社殿が焼失することが度々ありました。その後、豊臣秀吉が大阪城を築城した際に裏鬼門の鎮守神として崇敬を受け、木村重成によって社殿の再建のための資金が寄進されました。

明治5年(1872年)には村社に列格され、明治41年には近隣の諏訪神社も合祀されました。現在、石津太神社の鳥居の前には、紀州街道が南北に通っています。

社殿の構造

石津太神社の社殿には、江戸時代前期に造営された本殿が二棟あります。蛭子命、八重事代主命、天穂日命を祀る北殿は一間社流造であり、建御名方富命と天照大神を祀る南殿は一間社春日造となっています。宝暦年間に造営された割拝殿は入母屋造で、これらの建造物は神社の歴史と共にその重要性が守られています。

境内と末社

石津太神社の境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在します。また、境内には磐山稲荷社、八幡神社、白蛇社などの末社もあり、それぞれに古くからの信仰が集まっています。さらに、石津川の北岸には、葦舟に乗った蛭子命が漂着した場所とされ、御旅所として祀られています。

鳥居と扁額

鳥居の扁額には、三条実美(さんじょうさねとみ)が参拝した際に書いたと伝えられており、歴史的な価値を持つ重要な文化財となっています。

年中行事:ヤッサイホッサイ祭り

石津太神社では、毎年12月14日に「泉州の奇祭」と呼ばれる「ヤッサイホッサイ祭り」が行われます。この火祭りは、古代に蛭子命が漂着した際に付近の住民が篝火(かがりび)を炊いて迎えたという伝承に由来しています。

祭りの中で、願い事を書いた紙を貼り付けた108束のご神木が参道に積まれ、神職が点火して炎が燃え広がる様子が見られます。この燃え方によって吉凶を占うとされ、東に倒れると「おかましや」と呼ばれ豊穣が、西に倒れると「はまましや」と呼ばれ豊漁が予測されます。火祭りの最後には、戎神に仮装した神人を男衆が担ぎ、「やっさいほっさい」との掛け声とともに火渡りが行われます。参拝者も火渡りに参加し、燃え残った灰や炭が歯痛の痛み止めや厄除けとして信仰されています。

類似した祭り:やっさいもっさい

なお、千葉県木更津市でも「やっさいもっさい」という名称の祭りが行われていますが、こちらは火祭りではなく踊りを主体としたものであり、石津太神社の「ヤッサイホッサイ祭り」とは直接の関係はありません。

Information

名称
石津太神社
(いわつた じんじゃ)

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