概要
本徳寺は、臨済宗の高僧である南国梵桂(なんごくぼんけい)によって開基されたと伝えられています。当初は和泉国南郡鳥羽村(現・大阪府貝塚市鳥羽)に「海雲寺」として創建されましたが、兵火によって焼失しました。その後、岸和田藩主・岡部行隆の命により「本徳寺」と改称され、現在の和泉国南郡岸和田村に移転しました。
南国梵桂和尚について
本徳寺を開基した南国梵桂和尚は、一説には明智光秀の長男・明智光慶(あけちみつよし)であるとされています。光慶は出家し、妙心寺の塔頭瑞松院に住して「玄琳」(げんりん)と名乗りました。この点が、本徳寺と明智光秀に深い縁がある理由の一つです。
明智光秀の肖像画と生存説
本徳寺には、明智光秀の肖像画が所蔵されています。この肖像画には「放下般舟三昧去」という一文が記されており、これは「仏門に入り去っていった」という意味です。光秀が生き延びて僧になり、その後、寺を出たと解釈されることもあります。
戒名と光秀の名
本徳寺に残されている位牌には、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」という戒名が記されています。この戒名の中の「輝」や「琇」という文字には、「光秀」という名前が隠されていると考えられています。このため、光秀が本徳寺を開基し、また生存していた証拠として、肖像画と位牌が注目されています。
「当寺開基慶長四己亥」
光秀の位牌の裏側には「当寺開基慶長四己亥」(1599年・慶長4年に本寺を開基)と記されています。これは、光秀が1599年に本徳寺を開基したことを示すとされ、この年に光秀が生きていた証拠とも解釈されるため、生存説の裏付けとして取り上げられます。
かごめかごめの暗号
一部の研究者は、日本の童謡「かごめかごめ」に光秀に関する暗号が隠されていると考えています。たとえば、「後ろの正面誰」という歌詞について、光秀の出身地である岐阜県可児市から日光(日光東照宮)を向くと、後ろの正面に本徳寺がある大阪府岸和田市(貝塚市)があります。このため、日光東照宮に縁のある天海(てんかい)の正体が光秀であるという説が唱えられています。
鳥羽の俗謡
また、鳥羽村には、かつて「大日庵」という場所があり、光秀が亡命して隠棲していたという伝承もあります。鳥羽の俗謡に、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という歌詞が残されています。この俗謡もまた、光秀が生き延びて鳥羽村で暮らしていた可能性を示唆しているとされています。
本徳寺の所在地と交通アクセス
本徳寺は、大阪府岸和田市五軒屋町9-13に位置しています。アクセス方法として、以下の交通手段があります。
南海本線岸和田駅からのアクセス
南海本線岸和田駅から徒歩約8分で到着します。寺院までの距離は比較的近く、岸和田市内の散策を兼ねて訪れることも可能です。