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若江城

(わかえじょう)

若江城は、河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)に存在した平城です。南北朝時代の1382年に築城され、安土桃山時代の1583年までおよそ200年間にわたりその役割を果たしました。河内国の経営を担当した守護代・遊佐氏が歴代城主を務め、畠山氏の河内経営の拠点として機能しました。

城名の由来

若江という地名は、河内国若江郡に由来します。伝承によると、神功皇后の時代に大旱魃が発生し、この地域の農作物が深刻な被害を受ける可能性がありました。その際、大般若経を唱えながら雨乞いの祈願を行ったところ、14日目に清水が湧き出し、農作物の被害を防ぐことができました。この「大般若経の若」と「清水の源である江」から「若江」という名前が付けられたとされています。

築城の経緯

若江城は、1382年に河内守護となった畠山基国によって築城されました。当初は守護所として政治機能のみを持つ施設でしたが、南北朝時代の戦乱の影響を受け、防衛施設としての機能も備えた城郭へと発展しました。

築城の理由と設計

南朝勢力への対策や幕府への反抗を防ぐため、基国は実力派の重臣・遊佐長護に築城を命じました。長護は河川や街道を整備し、若江城下町を計画的に設計しました。若江城は、周囲を流れる大和川や玉串川などの河川を天然の外堀として活用し、防衛力を高めました。

城下町の整備

若江城下町では、河内街道や十三街道などの重要な街道が交差する設計がなされました。これにより、城下町は経済や軍事の拠点として機能しました。

歴史的背景

南北朝時代の役割

若江城は、南北朝の戦乱や楠木正儀の動向に対処するための拠点として重要な役割を果たしました。

キリシタンとの関係

若江城主・池田教正は熱心なキリシタンで、若江城下には教会が設けられていました。しかし、教正が豊臣秀次の処分により没落したことや、豊臣秀吉の大坂城築城に伴い若江城が破却されたことで、城下のキリシタン勢力も衰退しました。

廃城とその後

1581年、織田信長と本願寺顕如の和議により、若江城は近隣の八尾城に統合されました。1583年には大坂城の築城のために若江城が破却され、完全に廃城となりました。

構造と発掘調査

城郭の構造

若江城の本丸は東西約130m、南北約150mで、面積は約20,000㎡とされています。発掘調査では、二重の堀や櫓跡、井戸跡などが確認されました。また、漆黒の瓦が出土し、若江城の建物が瓦葺きであったことが判明しました。

発掘調査の成果

1972年以降に行われた発掘調査では、多くの土器類や武器類が出土し、若江城の歴史や構造を明らかにしました。

若江城跡の所在地とアクセス

若江城跡は、大阪府東大阪市若江南町二丁目9番2号付近に位置しています。

最寄り駅

近鉄奈良線の若江岩田駅

最寄りバス停

近鉄バス若江停留所

Information

名称
若江城
(わかえじょう)

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