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小楠公 御墓所

(しょうなんこうごぼしょ)

小楠公御墓所は、大阪府四條畷市に位置する、南北朝時代の南朝の武将・楠木正行(くすのき まさつら)の墓所です。この地は、日本の歴史において「忠君愛国」の象徴として称えられ、多くの歴史愛好家や観光客が訪れる場所となっています。

概要

楠木正行が最期を迎えたこの場所は、正平3年(1348年)または貞和4年(1348年)に起きた四條畷の戦いの際、自害した地とされています。現在の住所は大阪府四條畷市雁屋南町27番5号で、戦場跡としての歴史的な価値とともに、楠木正行の精神を後世に伝える役割を果たしています。

「忠君愛国」の象徴として

楠木正行の父である楠木正成(くすのきまさしげ)は、明治時代の政府によって「大楠公(だいなんこう)」として神格化されました。この影響で、正行も「小楠公(しょうなんこう)」として崇められ、父子の忠義が称賛されるようになりました。この墓所の存在は、四條畷神社(別格官幣社)の創建や、大阪府立四條畷高等学校(旧・府立中学校)の設立にもつながりました。

墓所の特徴

小楠公御墓所の入り口には、右手に「忠」、左手に「孝」と刻まれた石柱が立っています。この象徴的な柱は、楠木正行の生き方を象徴するもので、訪れる人々に深い感慨を与えます。

敷地内の見どころ

これらの遺物や自然は、当時の楠木正行の決意とその家族の絆を後世に伝え続けています。特に、クスノキの巨木は訪れる人々に圧倒的な存在感を示し、その歴史を物語っています。

楠木正行について

楠木正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代に南朝の後村上天皇に仕えた武将であり、楠木氏の棟梁です。父・楠木正成に倣って「小楠公」と尊称される、南北朝期の代表的名将です。

生涯

生い立ち

楠木正行の生年や幼少期の実態は定かではありません。複数の説がありますが、一般には、延元5年/暦応3年(1340年)以降に歴史上に登場することが知られています。

南朝での活躍

河内守・河内守護としての7年間、楠木正行は戦いを行いませんでしたが、それは幕府との全面戦争に備えた力の蓄積期間であったと考えられます。正平2年/貞和3年(1347年)、ついに挙兵した正行は、北朝の大軍を相手に次々と勝利を収め、幕府内部の不和を狙った戦略的行動を取りました。

最期の戦い

正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは、幕府の大軍を相手に一時的に優勢を保つも、最終的には力尽きて戦死しました。この戦いで正行の最期が悲壮な「玉砕」として描かれる一方、歴史学的には勝利を狙った現実的な戦略であった可能性も示唆されています。

後世の評価

楠木正行は、その忠誠心と博愛精神から、「忠君愛国」の象徴として後世に語り継がれています。明治時代には明治天皇より追悼の勅語を受け、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となりました。

「桜井の別れ」の物語

楠木正行の父との別れを描いた「桜井の別れ」の物語や、戦場で敵兵を救ったという伝説は、後世の人々に感銘を与え、日本赤十字社の広報活動にも利用されました。

交通アクセス

小楠公御墓所へのアクセスは非常に便利です。最寄り駅から徒歩圏内にあり、公共交通機関を利用して気軽に訪れることができます。

まとめ

小楠公御墓所は、歴史的・文化的な意義を持つ場所として、四條畷市の誇りであり、多くの観光客に愛されています。この地を訪れることで、楠木正行の生き方やその時代背景を感じることができるでしょう。また、墓所周辺には四條畷神社や飯盛山城跡など、歴史的名所が点在しているため、歴史探訪の旅としてもおすすめです。

Information

名称
小楠公 御墓所
(しょうなんこうごぼしょ)

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