交野城は、大阪府交野市私部に位置していた日本の城(平城)で、別名を私部城といいます。交野市指定史跡にも指定されており、地域の重要な歴史遺産として注目されています。
交野城は、交野市の北方に広がる丘陵地帯に位置し、免除川の南側に築かれました。発掘調査の成果から、永禄期(1558年~1570年)頃に築城されたと考えられていますが、正確な築城時期には諸説があります。築城主としては、河内の有力者である安見宗房の一族、安見右近の名が挙げられます。
廃城時期についても明確な記録は残されていませんが、織田信長の本能寺の変以後に廃された可能性が指摘されています。
交野城は「片野」や「カタノ」という名称でも知られています。これらの広域地名で呼ばれた背景には、単なる防御拠点としてだけでなく、広域支配を意識した城であったことが考えられます。
安見右近が築城した説が有力ですが、鷹山弘頼が居館を構えていた可能性や、安見宗房・野尻宗泰父子が私部を支配していた時期に築城された可能性もあります。
当時の交野は、京都・奈良・摂津を繋ぐ交通の要衝で、河内国でも重要な位置にありました。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を伴い上洛し、安見右近も義昭に帰参しました。交野城は松永久秀の配下となり、戦略的拠点としての役割を果たしました。
その後、元亀元年(1570年)には三好三人衆に備えるため、織田信長の命により守備が強化されましたが、翌年、安見右近が松永久秀により自刃を強いられるという悲劇が起こりました。
交野城は、本郭、二郭、三郭という主曲輪を中心に構成されていました。以下にそれぞれの特徴を示します。
本郭は城の中心部に位置し、東西約50m、南北約60mの方形の構造を持っていました。北端は段高が5mにも及び、堅固な防御構造を持つ部分です。
二郭は本郭の西側に位置し、「天守」とも呼ばれていました。東西約25m、南北約100mの長方形の形状を持ち、交野城の井戸跡が存在したとされています。
三郭は本郭の東側にあり、空堀を挟んで配置されていました。しかし、現在ではその一部が宅地化され、当初の姿を完全に確認することは困難です。
交野市教育委員会による発掘調査の結果、三郭から弥生時代の遺物が発見され、この地が弥生時代の環濠集落であった可能性が指摘されています。また、焼土層が複数の調査で確認されており、火災の痕跡が見つかっています。
京阪交野線「交野市駅」から徒歩約10分で到達可能です。
第二京阪道路「枚方東IC」から国道307号経由で府道736号を進むと便利です。周辺にはコインパーキングもあります。
交野城の周辺には、高槻城や枚方城といった他の城跡も点在しており、歴史好きには魅力的なエリアとなっています。
交野城は戦国時代の重要な歴史の舞台としてだけでなく、現在も史跡として地域の歴史を語り継ぐ貴重な遺産です。訪問することで、歴史の一端を直接感じることができるでしょう。