飯盛山城は、大阪府大東市と四條畷市にまたがる飯盛山(標高315.9m)に築かれた山城で、その別名は「飯盛城」とも呼ばれ、中世から戦国時代にかけて重要な役割を果たしました。この城は、2021年10月11日に国の史跡に指定され、2017年には「続日本100名城」にも選ばれています。
飯盛山城は、河内国讃良郡に位置し、河内と大和を隔てる生駒山脈の北西支脈に築かれました。中世における山城の中でも大規模で、強固な要塞として知られていました。城郭は南北約1,200m、東西約500mにも及び、70以上の曲輪が確認されています。
飯盛山城の歴史は、南北朝時代に始まります。佐々目憲法が築いたとされていますが、この時代の城は恒久的なものではなく、一時的な陣城であったと考えられています。『太平記』には、1348年の四條畷の戦いで南朝方が飯盛山に立て籠もった記述があります。
天文年間(1532年頃)には、畠山義堯が家臣の木沢長政に命じて城郭を構築させ、恒久的な居城へと改修されました。これにより、飯盛山城は河内をめぐる争いの中心地となり、数々の戦いが繰り広げられました。
1532年、木沢長政と畠山義堯軍との間で「飯盛城の戦い」が勃発しました。細川晴元の援軍や山科本願寺の証如が指揮した一揆軍の助力により、木沢長政は勝利を収めました。この戦いは、宗教勢力と武士が絡んだ中世の複雑な勢力図を示す一例です。
その後、三好長慶が飯盛山城を居城とし、大規模な改修を施しました。この時期に城郭としての完成度が高まり、現在残る石垣などの構造もこの時代に築かれた可能性があります。
永禄年間には、三好長慶の死後に城主が次々と変わり、1576年(天正4年)に織田信長による攻撃を受けて落城しました。この後、飯盛山城は廃城となりました。
飯盛山城の最高地点には「高櫓曲輪」があり、その北側には「本曲輪」が配置されています。本曲輪の下には、山城としては珍しい石垣が確認されています。これらの石垣は三好長慶が築いたものと考えられるほか、織田信長の時代に再構築された可能性も指摘されています。
飯盛山城内には、堀切や虎口といった防御設備の遺構も残されています。これらは城の防御力を高めるために設けられたもので、中世山城の典型的な特徴を示しています。
飯盛山城跡は、歴史的な価値が高く、研究や観光の場として注目されています。大東市歴史民俗資料館には城郭の模型が展示されており、飯盛山城の構造を詳しく知ることができます。また、城跡を巡るハイキングコースも整備されており、自然を楽しみながら歴史に触れることができます。
飯盛山城は山中に位置しているため、訪問の際には十分な準備が必要です。特に、城跡までの道のりは険しい箇所もあるため、歩きやすい靴や水分補給の準備を忘れないようにしてください。
飯盛山城は、戦国時代の激動を物語る歴史的な遺産であり、日本の中世史を理解する上で欠かせない存在です。現在は国の史跡として保存されており、多くの人々にその魅力を伝えています。歴史好きな方はもちろん、自然を楽しみたい方にもおすすめの観光スポットです。