楠葉台場は、大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目にある台場跡で、国の史跡として指定されています。この歴史的な場所は、現在「楠葉台場跡史跡公園」として整備され、多くの人々が訪れる観光名所となっています。
楠葉台場は、石清水八幡宮のある男山の西側に位置し、すぐ西には淀川が流れています。また、京阪電気鉄道の橋本駅からも近い場所にあり、アクセスが便利です。この場所は歴史的な背景を持つだけでなく、周囲には久修園院などの名所も点在しています。
楠葉台場は水堀を備えた稜堡式砲台で、西洋式の要塞の構造を持っています。その面積は約3万8千平方メートルにもおよび、大砲を3門設置していました。京街道を台場内に通すように設計され、監視と防御の役割を担いました。また、淀川を通航する船を監視するための船番所も隣接して設けられていました。
楠葉台場は幕末の動乱期、外国船の進入を防ぐために建設されました。嘉永7年(1854年)、ロシア帝国の軍艦が大阪湾に現れたことが契機となり、防御拠点として計画されました。しかし、文久3年(1863年)には京都守護職の松平容保が提案し、勝海舟が建設を主導したことで本格化しました。
楠葉台場は、外国船からの防御だけでなく、反幕府勢力や過激派が京都に侵入するのを防ぐための関門としての役割も担っていました。完成したのは慶応元年(1865年)で、南側の防御を強化する稜堡式の形式を採用していました。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が新政府軍に敗北した後、楠葉台場に立てこもり、抵抗を試みました。しかし、津藩の裏切りや新政府軍の進攻により、防御が突破され、大坂へ撤退を余儀なくされました。この戦いで、楠葉台場の構造的な弱点が露呈しました。
明治時代になると楠葉台場は荒廃し、南側の堀を残して他の遺構は埋め立てられ、田畑や開発用地となりました。1910年には京阪電気鉄道が開通し、一部の遺構は消失しました。しかし、2005年の古文書調査によって場所が特定され、その後の発掘調査を経て、2011年に国の史跡に指定されました。
楠葉台場跡へは、京阪電気鉄道の橋本駅から徒歩数分でアクセス可能です。この便利な立地により、訪れる観光客が絶えません。
2018年11月3日、楠葉台場跡を活用した初のイベント「楠葉台場de盆踊り」が開催されました。このイベントは地域活性化を目的とし、「くずはでいいものみっけ連絡協議会」が主催しました。また、鳥羽・伏見の戦いの慰霊や明治150年の節目を記念した意味も込められていました。
枚方市では、楠葉台場跡を観光資源として活用するための取り組みが進められています。史跡としての価値を守りつつ、多くの人々にその歴史的意義を伝える場として整備されています。
楠葉台場は、日本の幕末期の歴史を物語る貴重な遺構です。その地形や構造は、当時の戦術や防御計画を理解する上で重要な資料となっています。また、公園として整備された現在では、地域の文化財として親しまれ、訪れる人々に過去の教訓を伝えています。