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三箇菅原神社

(さんが すがわら じんじゃ)

三箇菅原神社は、大阪府大東市三箇に位置する歴史ある神社です。地域の住民にとって大切な氏神様として崇められており、その背景には長い歴史が刻まれています。

神社の歴史

三箇菅原神社は住道地区の氏神であり、1679年(延宝七年)の「三箇村検地帳」にその名前が記されています。当時は「氏神天満宮」と呼ばれていました。境内には摂社として稲荷社が祀られ、天神様とともに五穀豊穣の神として信仰されています。

また、境内にはかつて曹洞宗宇治興聖寺の末寺である水月院が存在しており、神仏習合の面影を残していました。このような宗教的な多様性は、当時の文化の特徴をよく表しています。

神社の宝物と伝説

三箇菅原神社には「神刀」が奉納されています。この刀は、1706年(宝永三年)に深野池の干拓作業中に氏子たちが発見したもので、神威の高揚を願って奉献されました。

さらに、神社の敷地内には「三箇城址」と記された石碑が建てられています。この碑は1919年(大正八年)に府によって建立され、かつて三箇城が存在していたとされる歴史を伝えています。

三箇城の歴史

三箇城(さんがじょう)は、大阪府大東市にかつて存在した日本の城です。深野池の西側に位置し、複数の島が集まる地形を利用して築かれました。

城の起源と役割

三箇城の築城時期は明確ではありませんが、1470年前後に畠山義就と畠山政長の争いの中で建てられたと考えられています。1471年(文明三年)には、義就方の遊佐五郎が三箇に立て篭もった記録があります。

当初は野崎城の支城であり、後に飯盛山城の支城としての役割を果たしました。

戦国時代の動乱と三箇城

1560年(永禄三年)、三好長慶が畠山高政らを破り、飯盛山城を拠点としました。しかし、翌年には畠山高政が三箇城を攻撃し、城主三好政成を討ち取るなど、三箇城は度重なる攻防の舞台となりました。

三箇のキリシタン文化

1562年(永禄五年)、三箇城主の三箇頼照はキリスト教に改宗しました。彼は城下に聖堂を建設し、三箇を河内キリシタンの拠点として発展させました。

三箇では、毎年復活祭が行われ、地域住民や信者が集まり盛大な行事が執り行われました。このようなキリスト教文化の影響は、地域の歴史に深く刻まれています。

三箇城の最期

1582年(天正十年)の本能寺の変の際、三箇親子は明智光秀に与しましたが、山崎の戦いで光秀が敗北したため、城下は焼き討ちに遭い、三箇城は廃城となりました。

その後、結城如安や高山右近といったキリシタン武将が領主となりましたが、城は再建されることなく、歴史の舞台から姿を消しました。

三箇菅原神社と三箇城址

現在、三箇菅原神社の敷地内には「三箇城址」の石碑が建てられています。この碑は地域の歴史を伝える重要な遺産であり、多くの訪問者が歴史を感じる場となっています。

三箇菅原神社と三箇城址は、地域の歴史と文化を知る上で貴重な場所です。訪れる際には、その背景にある物語に思いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか。

Information

名称
三箇菅原神社
(さんが すがわら じんじゃ)

東大阪

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