石宝殿古墳は、大阪府寝屋川市打上に位置する国の史跡に指定された古墳です。古墳時代終末期に築造された貴重な遺跡であり、その特徴的な構造や歴史的価値から、多くの研究者や訪問者の注目を集めています。
石宝殿古墳は、大阪府北東部の生駒山地北端に広がる丘陵の斜面上に築造された古墳です。周囲には、打上神社(高良神社)があり、古墳はその裏山に位置します。この古墳は江戸時代から記録に残っており、現代までに実測調査や発掘調査が行われてきました。
現在では墳丘封土が失われていますが、もともとは封土を伴わないとする説や八角形の墳丘であったとする説があります。いずれにせよ、独自性の高い構造を持っていたと考えられています。
埋葬施設には、横口式石槨が採用されています。この石槨は花崗岩の巨石2個をくり抜いて組み合わせたもので、非常に希少な例です。特に石槨の蓋石(上石)と底石(下石)が巧妙に加工されており、当時の高い技術水準を示しています。
石槨の底石は南北長約3メートル、厚さ約0.10メートルで、蓋石は直径約3.2メートル、厚さ約1.7メートルという大きさです。蓋石には横口部がくり抜かれ、入り口部分には閉塞用の扉石が設置されていましたが、現在は欠損しています。
石槨前面には巨石2個が設置され、羨道を形成しています。また、石槨後背部には列石が4個あり、これが墳丘封土の土留め石であった可能性が指摘されています。この列石の配置から、墳丘が八角形だった可能性も考えられています。
石宝殿古墳は、古墳時代終末期である7世紀中葉頃に築造されたと推定されています。同地域では、6世紀代の群集墳として「打上古墳群」や「打上神社古墳群」が知られていますが、石宝殿古墳はそれらの時代を経た後に築造された、単独の有力豪族の墓であるとされています。
横口式石槨という墓制は、当時の有力支配者層が採用した形式で、大阪府の中・南河内地域や奈良県明日香地域で多く見られます。しかし、北河内地域では石宝殿古墳が唯一の例であり、その点でも特異な存在です。
石宝殿古墳についての最初の記録は江戸時代にさかのぼります。1774年(安永3年)には、付近で金銅製骨蔵器が発見され、これが極楽寺の境内に埋納されたと伝えられています。また、1801年(享保元年)刊行の『河内名所図会』にも記述があります。
1874年(明治7年)には堺県令・税所篤により調査が行われました。その後、大正時代には梅原末治による実測調査が実施され、1973年(昭和48年)には国の史跡に指定されました。さらに、1978年(昭和53年)や1988年度(昭和63年度)にも発掘調査が行われています。
石宝殿古墳は、1973年(昭和48年)5月10日に国の史跡に指定されました。この指定により、古墳の保存と保護が進められ、今日までその価値を後世に伝えています。
現在、石宝殿古墳は大阪府寝屋川市の歴史を学べる貴重なスポットとして親しまれています。訪問の際には、打上神社も併せて参拝し、地域の歴史や文化に触れることをお勧めします。
石宝殿古墳は、その独自の埋葬施設や歴史的な背景から、大変興味深い古墳です。横口式石槨という特異な構造や花崗岩を利用した技術は、古代の日本における墓制の一端を物語っています。歴史や考古学に興味のある方にとって、ぜひ一度訪れていただきたい場所です。