山崎蒸溜所は、日本の大阪府三島郡島本町に位置するサントリー所有のジャパニーズ・ウイスキー蒸留所です。この蒸溜所は、日本初のモルトウイスキー蒸留所として知られ、同所の名を冠した「山崎」という銘柄で高い評価を得ています。独自の多様な原酒を製造し、国内外のウイスキー愛好家に愛されています。
山崎蒸溜所は、ウイスキー生産における日本の代表的な施設としての役割を果たしてきました。国内初の本格的なモルトウイスキーの蒸溜所であり、蒸溜所内で多彩な原酒を生産し、ブレンディングにおいても高い評価を得ています。
山崎蒸溜所の創設は、寿屋(現在のサントリー)創業者である鳥井信治郎氏とウイスキー技術者竹鶴政孝氏の協力によって成し遂げられました。鳥井氏は1907年に「赤玉ポートワイン」を、1911年に「ヘルメスウイスキー」を成功させ、日本市場におけるウイスキーの可能性を見出しました。彼の夢は、日本人のための本格的なウイスキーを作ることでした。
竹鶴政孝氏は、スコットランドでウイスキーの醸造技術を学び、日本に帰国後、鳥井氏の誘いを受け、1923年に寿屋に入社しました。スコットランドで培った技術を日本に取り入れるため、蒸溜所の設立が進められました。
鳥井氏と竹鶴氏の意見が合意に至り、1923年に大阪府と京都府の県境に位置する山崎の地に蒸溜所を建設することが決まりました。この地は名水百選にも選ばれる「離宮の水」で知られ、湿潤な気候と豊かな水源に恵まれ、ウイスキー製造に最適な環境が整っていました。1924年11月11日、山崎蒸溜所が竣工し、本格的なウイスキーづくりが始まりました。
蒸溜所設立当初は、ウイスキーの熟成期間が長く、製品を市場に出すまでの間、経営を圧迫しました。鳥井氏は、製造費用を捻出するため、歯磨き粉「スモカ」などを開発し、経営を支えました。1929年、日本初の本格国産ウイスキー「サントリーウイスキー」(通称「白札」)が発売されましたが、価格の高さとスモーキーフレーバーが日本の消費者には受け入れられず、商業的には失敗に終わりました。
1937年に発売された「角瓶」が成功を収めたのも束の間、日中戦争や太平洋戦争が勃発し、日本は戦時体制へと突入しました。山崎蒸溜所は日本軍の指定工場となり、戦時中もウイスキー製造を継続しました。戦争末期にはウイスキー樽をトンネル内に避難させるなどの措置が取られ、蒸溜所は幸運にも戦火を免れました。
戦時中、輸入材が不足していたことから、山崎蒸溜所では日本産のミズナラ樽をウイスキー熟成に使用し始めました。ミズナラ樽で熟成されたウイスキーは、香木のような独特の香味を持ち、現在では山崎ブランドの特徴の一つとして高く評価されています。
戦後、山崎蒸溜所はウイスキー生産を再開し、1950年には「サントリーオールド」を発売しました。この頃から日本国内でウイスキーブームが巻き起こり、山崎蒸溜所の生産能力も増強されました。1958年にはポットスチルが4基、1963年には8基に増設され、生産能力が8倍に向上しました。1968年にはさらに4基が増設され、当時の生産体制が整いました。
1984年には山崎蒸溜所稼働60周年を記念して「ピュアモルト山崎」が発売されました。これに続き、1987年から1989年にかけて設備の大改修が行われ、木製ウォッシュバックと直火加熱式ポットスチルが導入されました。この改修により、原酒の種類が多様化し、ブレンディングの幅が広がりました。
山崎蒸溜所は、創業100周年に向けて大規模な改修を進めています。2023年には見学施設をリニューアルし、蒸溜所内の体験がさらに充実しました。新たな設備としてフロアモルティングと電気式蒸留器が導入され、2024年の100周年記念に向けて、さらなる品質向上を図っています。
当初は「山崎工場」として知られていた山崎蒸溜所ですが、現在ではその名を冠したウイスキーの象徴的な存在となっています。最新の設備と伝統の技術を融合させた製品は、世界中で愛されています。観光客向けの見学ツアーも充実しており、山崎ウイスキーの奥深い魅力を体感することができます。
山崎蒸溜所では、見学ツアーが開催されており、ウイスキーの製造工程や歴史を学ぶことができます。また、見学後には山崎ウイスキーの試飲ができるのも魅力です。さらに、見学施設では山崎の製品や限定グッズが購入できるため、記念品としても人気です。
山崎蒸溜所は、日本のウイスキー文化の発展を支えてきた重要な場所であり、サントリーウイスキーの歴史とともに歩んできました。100周年を迎えるにあたり、新たな取り組みとともに、さらに高品質なウイスキーの提供を目指しています。見学ツアーも人気を集めており、国内外の観光客にとって魅力的な観光地としても注目されています。