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高槻城

(たかつきじょう)

高槻城は、大阪府高槻市城内町に位置し、かつては摂津国島上郡高槻村にあった城で、別名「入江城」とも呼ばれました。築城された当初から明治7年(1874年)まで存在し、現在は大阪府の指定史跡として、往時の姿をしのばせる一部が残されています。

歴史と沿革

高槻城は室町時代に入江氏の居城として建てられましたが、後に織田信長の侵攻によりその支配を失います。その後、和田惟政、高山右近といった武将たちが城主となり、天正元年(1573年)には本格的な城郭へと改築が進められました。豊臣氏が滅亡した後、徳川幕府の時代には内藤氏や土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏などが相次いで城主を務め、高槻藩の藩庁としての役割を果たしました。

明治維新と廃城

明治4年(1871年)の廃藩置県によって高槻藩が廃止されると、城も役割を終え、明治7年(1874年)には石垣や木材が東海道本線の資材として再利用されました。現在、城跡は高槻城跡公園として整備され、復元された石垣や高山右近の像が設置されています。

城郭の特徴と改修の歴史

高槻城は、10世紀末の990年頃に久米路山と呼ばれる丘陵に築かれたと言われています。初めて文献に登場するのは大永7年(1527年)のことで、薬師寺国長が波多野元清の攻撃から逃れるためにこの城に入ったとされています。その後、三好長慶の支城として使われ、やがて入江春継が城主となりました。

改修の段階

高槻城は何度かの大規模な改修を経て、次第に近代的な城郭へと発展しました。各改修の概要は以下の通りです。

最終的な高槻城の規模は、南北約630メートル、東西約600メートルと推定されており、内部には本丸や二の丸、三の丸といった曲輪が配置され、主要な防衛施設として複数の門や櫓が備えられていました。

キリスト教との関わり

高槻城は日本の城郭としては珍しく、キリスト教の普及に深い関わりがありました。特に高山右近はキリシタン大名として知られ、城内には教会が建てられ、領民の多くがキリスト教徒となりました。天正4年(1576年)には教会が完成し、領内におけるキリスト教の布教が一層活発化しました。

遺構と現在の姿

現代において高槻城の遺構は高槻城跡公園内で見ることができます。城の建物自体は多くが失われましたが、石垣の一部や、本行寺の門や永井神社の唐門など、城下町に移築されたものが現存しています。また、城跡公園には模擬天守台や本丸跡地の石碑が立てられ、訪問者に往時の姿を伝えています。

高槻城と他の城郭

徳川家康が布告した一国一城令により多くの城が廃城となる中、東播から摂津地域を抑えるため、高槻城は尼崎城や明石城と共に近代城郭として改修されました。特に高槻城、尼崎城、明石城の三城は修築時期が近く、計画的に整備が進められたことが分かっています。

海外からの視点

江戸時代に日本を訪れたオランダ商館長エンゲルベルト・ケンペルが、1691年に日本の城郭を視察した記録に高槻城が含まれており、欧州に日本の城として紹介されています。日本の歴史的な城郭として高槻城は、日本国内外で文化遺産として認識され、歴史的意義が評価されています。

このように、高槻城は日本の歴史と文化を理解する上で重要な位置を占めています。城跡公園として整備された現在の高槻城跡は、地域の歴史を後世に伝える貴重な文化財となっており、観光名所としても多くの人々が訪れています。

Information

名称
高槻城
(たかつきじょう)

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