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椋橋総社

(くらはし そうしゃ)

大阪府豊中市にある「椋橋総社」は、鯉伝説でも有名な神社で、「鯉の宮」という別称を持っています。ここでは、その歴史や伝承について詳しくご紹介します。

概要

椋橋総社は、大阪府豊中市庄本町に鎮座する由緒ある神社で、古くから鯉にまつわる伝説が伝わっています。神社の歴史は深く、古代から多くの人々に信仰されてきました。

鳥居

神社の入り口には立派な鳥居があり、参拝者を神聖な空間へと導きます。鳥居は神聖な領域への入り口として大切にされ、ここをくぐることで心を整え、清らかな気持ちで参拝することができます。

歴史と由緒

椋橋総社の歴史は、古代までさかのぼります。元々、椋橋荘(くらはしのしょう)という広大な荘園が東西に分かれて存在し、猪名川と神崎川の合流点に位置する荘本(現在の庄本町)に鎮座していました。神社はこの荘園の総産土神として祀られ、椋橋総社または椋橋荘神前松原の社とも称されていました。

創建伝承

遠い神代の昔、素戔嗚之尊(すさのおのみこと)が高天原から鯉に乗って神前(神崎)の水門を経て椋橋荘に降臨されたと伝えられています。この神話に基づき、崇神天皇7年(紀元前91年)に椋橋部連(むらじ)の祖、伊香我色乎命(いかがしこをのみこと)が神を祀りました。

朝廷と武門の崇敬

天文8年(1539年)には後奈良天皇の勅願所に定められ、朝廷からの厚い崇敬を受けました。また、武家からも篤く崇敬され、明徳2年(1391年)には藤原秀安が金鼓を寄進し、天正年間(1573年 - 1593年)には池田筑後守が武運長久を祈願して獅子頭を奉納しました。

戦乱による被害と復興

戦国時代には戦火によって社殿や宝物が焼失し、天正9年(1581年)には仮殿で神霊を鎮座しました。その後、慶長4年(1599年)に再建されましたが、古来の壮麗さを取り戻すことはできませんでした。さらに、大正5年(1916年)には火災で本殿と拝殿が焼失し、翌年に再建されています。

伝説・伝承

鯉伝説

椋橋総社には、素戔嗚之尊が鯉に乗って降臨したという鯉伝説が残っています。また、行基菩薩が村人の便のために板橋を架けようとした際、神に祈ると鯉たちが集まり魚橋を作ってくれたという話もあります。これにより村人たちは鯉を神の使いとし、食べることを禁じ、鯉を大切に守り続けてきました。

治田寺の鯉伝説

神社の近隣にある治田寺(兵庫県尼崎市戸ノ内町)にも鯉伝説が残っています。行基が洪水で流された橋を渡るため、鯉が集まって橋となったとされています。以来、村人たちは鯉を崇め、鯉を食べたり殺したりすることを禁じました。

椋橋城の伝承

椋橋総社の周辺は、かつて椋橋城があったとされています。この城は応仁の乱や戦国時代に重要な拠点とされ、多くの戦が行われましたが、現存する遺構はありません。椋橋城があったとされる場所には、さまざまな伝承が残っています。

祭神

椋橋総社の主祭神は素戔嗚之尊(牛頭天王)と神功皇后です。これに加え、鎌倉時代には後鳥羽上皇の寵姫である亀菊の信仰により、菅原道真を祀る出世亀菊天満宮も併設されています。

境内の施設

境内には本殿、拝殿の他に、縁結びの神として知られる恵比須神社や三社神社、稲荷社などがあり、それぞれが独自の神話や信仰を持っています。また、神社のシンボルである鯉を祀る鯉塚も境内に存在しています。

近年の信仰と広島東洋カープとの関わり

椋橋総社の神使である鯉にちなんで、近年では広島東洋カープのファンが必勝祈願のために訪れることもあります。カープファンにとっても聖地として認知され、シーズン中は多くのファンが参拝に訪れるようになりました。

祭事・イベント

椋橋総社では、秋の例大祭が行われ、氏子たちの法被には鯉のデザインが施されています。この祭りは地域に根差した伝統行事であり、古くからの伝説や信仰を今に伝える重要な行事です。

アクセスと周辺情報

椋橋総社は大阪府豊中市庄本町に位置し、阪急電鉄や大阪モノレールの駅からバスでアクセス可能です。また、神社周辺には歴史ある建造物や観光名所が点在しており、参拝後の散策もおすすめです。

まとめ

椋橋総社は、大阪府豊中市にある由緒ある神社で、鯉伝説や歴史的な遺産が多く残っています。ここを訪れることで、古代からの信仰や伝説に触れ、豊かな歴史を体感できるでしょう。近年では広島東洋カープのファンの参拝地としても知られ、さまざまな世代に親しまれています。大阪を訪れた際には、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

Information

名称
椋橋総社
(くらはし そうしゃ)

箕面・豊中・高槻

大阪府