今城塚古墳は、大阪府高槻市郡家新町に位置する壮大な前方後円墳で、国の史跡に指定されています。6世紀前半に築かれたもので、当時としては最大級の古墳とされ、一般公開されている数少ない大王陵のひとつです。第26代継体天皇の真の陵墓である可能性が高いとされ、発掘調査も行われてきました。
今城塚古墳は、三島平野の中央部に位置し、周辺は摂津北部の豊かな自然に囲まれています。墳丘の全長は約190メートルにおよび、淀川流域では最大規模の前方後円墳とされています。二重の濠に囲まれた墳丘は、内濠・外濠を含む広大なエリアが釣鐘型を呈し、その兆域は340メートル×350メートルに及びます。
今城塚古墳の被葬者については、6世紀にヤマト政権を治めた大王(おおきみ)であると考えられ、特に継体天皇の真の陵である可能性が指摘されています。文献や墳丘の形状、出土した埴輪の年代などからも、大王墓としての定説が支持されています。また、今城塚古墳の出土物には、埴輪工房の跡とされる新池遺跡との関連も見られます。
今城塚古墳は、真の継体天皇陵であるとの説がある一方で、宮内庁は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳を継体天皇の陵墓として指定しています。しかし、太田茶臼山古墳は5世紀中葉の築造とされ、継体天皇が没したとされる6世紀には不適であることから、今城塚古墳が本来の継体天皇陵である可能性が学術的に支持されています。
今城塚古墳の墳丘は長年の風雨や地震による崩壊が進み、荒廃が著しかったとされます。1568年には織田信長が摂津を攻めた際、城砦としても利用されたと考えられていましたが、発掘調査により1596年の伏見大地震により地滑りが生じたことが明らかになりました。
1997年以降、高槻市は今城塚古墳を史跡公園として整備するため、継続的な発掘調査を行い、2011年には7年間にわたる復元整備事業が完了しました。内堤部分には日本初となる埴輪祭祀場が復元され、家形や人物、動物などの埴輪約190点が展示されています。さらに、「今城塚古代歴史館」が併設され、出土品や復元された埴輪が展示されることで、地域の歴史や文化が広く発信されています。
今城塚古墳では、二重の濠を区切る内堤から多くの埴輪や祭祀具が出土しています。発掘された埴輪の数は日本最大級であり、特に家形埴輪は高さ約170センチメートルに達し、人間の身長に匹敵する大きさです。この家形埴輪には神社建築の象徴である鰹木(かつおぎ)や千木(ちぎ)が施されており、古代の神殿建築を模していると考えられます。
1997年から毎年行われている発掘調査では、多種多様な埴輪が出土しています。巫女や武人、動物などをかたどった形象埴輪が並び、その数は113点以上にのぼります。これらの埴輪は、古代の生活や信仰を知る上で貴重な手がかりとなり、今城塚古墳の文化的価値を高めています。
2016年には、今城塚古墳付近で見つかった石材が古墳の石棺片である可能性が指摘され、大きな注目を集めました。石棺片の一部が古代の建造物や橋に再利用された可能性もあり、今後さらなる調査が期待されています。
今城塚古墳は1958年(昭和33年)に「今城塚古墳」として国の史跡に指定され、1991年には新池埴輪製作遺跡が追加指定されました。さらに2006年には古墳の北側も追加指定され、史跡としての保護が強化されています。これにより、今城塚古墳は日本の歴史と文化を物語る重要な遺産として保存されています。
今城塚古墳は、一般の見学が可能で、墳丘周辺は散策路としても親しまれています。高槻市観光協会は「自由に歩きまわることができる日本唯一の大王陵」として今城塚古墳を紹介しており、国内外の観光客にとっても貴重な観光地です。