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郡山宿本陣

(こおりやましゅく ほんじん)

郡山宿本陣は、大阪府茨木市にある旧西国街道の郡山宿の本陣です。かつて「椿の本陣」とも呼ばれ、その名の由来は御成門脇に咲く美しい椿にあります。江戸時代には、郡山宿が西国大名たちの参勤交代の宿場町として賑わい、本陣は重要な役割を果たしていました。

概要

郡山宿本陣は、旧西国街道(山崎道)沿いに位置し、国の史跡に指定されています。旧西国街道は古くから重要な幹線道路で、奈良時代から京都や奈良と西日本を結ぶ道として利用されていました。江戸時代においては、京都と西宮を結ぶ街道の中間点にある郡山宿が、参勤交代などのために多くの大名に利用されました。

現在も郡山宿本陣には当主が在住しており、見学には原則として5名以上で10日以上前の予約が必要です。しかし、年に2回の一般特別公開の期間中は予約不要で、4名以下でも見学可能です。

本陣の規模と特徴

郡山宿本陣には本陣と脇本陣が設置されていました。火災などの緊急時には、現在の箕面市小野原や茨木市十日市に非常立退き所が定められており、対応体制が整えられていました。また、本陣には常時30人の人夫と36匹の馬が用意されており、不足が生じた場合は近隣の村々から補充されていました。

本陣の当主は代々「善右衛門」を名乗り、一橋家から帯刀が許されていたため、格式ある存在として尊ばれていました。

大名の通行量と宿泊記録

郡山宿本陣には、1696年(元禄9年)から1872年(明治3年)までの宿帳が保存されており、多くの大名が利用していたことが記録されています。年間で8回から15回程度の宿泊・休憩が行われ、特に元文5年(1740年)から寛延3年(1750年)頃は年間30回以上の宿泊があったとされています。さらに、正徳元年(1711年)や文久3年(1863年)には、45回もの宿泊が記録されており、頻繁に利用されていたことがわかります。

記録に残る宿泊者

郡山宿本陣には、著名な人物も宿泊していました。その中でも、特に以下の人物が記録されています。

浅野長矩(あさのながのり)

元禄13年(1700年)5月16日(旧暦)に宿泊したとされ、この宿泊は、松の廊下での吉良上野介への刃傷事件の前年にあたり、最後の宿泊となりました。

脇坂安照(わきさかやすてる)

元禄14年(1701年)4月11日(旧暦)に宿泊。この宿泊は、浅野長矩が起こした吉良上野介への刃傷事件を受け、赤穂城を受け取りに行くためのものでした。

明治天皇

慶応2年(1867年)7月15日(旧暦)、皇太子時代の明治天皇が長州御微行の際に郡山宿本陣に滞在しました。当初は芥川宿に宿泊予定でしたが、山崎で合戦が発生したため、急遽郡山宿に宿泊することとなりました。その際、天皇は菊の御紋が入った夏蒲団を御下賜されました。

現在の建物と再建の歴史

現地の案内看板によると、郡山宿本陣は享保3年(1718年)に類焼により焼失し、現在の建物は享保6年(1721年)に西国諸大名の寄付によって再建されたものとされています。現存する建物には、母屋、土蔵、茶席、納屋(牢屋兼用)などが含まれ、2001年(平成13年)に一部改修が行われましたが、江戸時代当時の施設のまま残されています。

郡山宿本陣の文化財的価値

郡山宿本陣は、歴史的な背景とともに、保存された宿帳や当時の建物により江戸時代の宿場文化を今に伝える貴重な史跡です。本陣を利用した大名や明治天皇の記録、格式高い当主の役割など、歴史の舞台であった郡山宿の姿を感じることができます。また、椿の本陣としても有名であり、椿の花が咲く春には多くの観光客が訪れます。

見学について

郡山宿本陣の見学は、原則として事前予約が必要です。5名以上のグループで、見学希望日の10日以上前に予約が求められます。ただし、年2回の特別公開の期間中は、予約不要で4名以下の個人でも見学可能です。歴史的価値の高い郡山宿本陣を間近で感じられる貴重な機会ですので、観光や歴史に興味のある方にはぜひ訪れていただきたい場所です。

アクセス情報

公共交通機関: 阪急京都線「茨木市」駅から阪急バス「郡山」バス停下車後、徒歩約10分です。

車: 名神高速道路「茨木IC」より約15分です。駐車場も完備されています。

郡山宿本陣は、江戸時代の宿場町の歴史や文化を体感できる貴重な場所であり、その格式と歴史に触れられる絶好のスポットです。見学を通じて、当時の宿場町の姿を感じ取ることができるでしょう。

Information

名称
郡山宿本陣
(こおりやましゅく ほんじん)

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