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茨木城

(いばらきじょう)

茨木城は、大阪府茨木市にかつて存在した日本の城で、現在ではその跡地は宅地化され、城の面影はほとんど残されていません。しかし、一部の城門が移築されて茨木神社や茨木小学校に復元され、城の歴史を伝える数少ない遺構として現在も見ることができます。

茨木城の歴史と沿革

茨木城の築城に関しては、いくつかの説があります。一説には、建武年間(1334年 - 1336年)に楠木正成が築いたとされ、他には安富氏や福富氏が築いたという説もあります。このように茨木城の正確な起源は不明ですが、その歴史を紐解くと、様々な武将たちによる支配や争いの舞台となったことがわかります。

茨木氏の時代

茨木氏は室町時代に勢力を伸ばし、応仁の乱(1467年 - 1477年)に東軍として参加したことでその名が知られるようになりました。文明14年(1482年)には、細川政元の軍勢によって茨木城が攻め落とされるなど、一時的に勢力を失いましたが、茨木長隆の時代には再び勢力を拡大しました。

天文年間(1532年 - 1555年)には、細川晴元に味方し、茨木氏は摂津地域の有力な一族としての地位を確立しました。しかし、天文18年(1549年)の江口の戦いでの敗北を機に、茨木長隆が戦死、茨木氏はその後、勢力を失っていきました。

織田信長との関わり

その後、茨木氏は織田信長に従うことになり、信長の摂津支配の一部として、茨木城もまた重要な拠点となりました。しかし、元亀2年(1571年)の白井河原の戦いで、茨木重朝は戦死。城は荒木村重によって攻め落とされ、茨木氏の時代はここに終わりを告げました。

中川氏の支配

茨木城はその後、中川清秀の管理下で修復が行われ、大規模な拡張が進められました。天正5年(1577年)には清秀が正式な城主となり、城は一層の繁栄を迎えました。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変以降、清秀もまた戦死し、その子・秀政が城主となりましたが、茨木城は豊臣秀吉の直轄地となり、城の役割も次第に変化していきました。

片桐氏の時代

関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)には片桐且元とその弟・貞隆が茨木城の城主となりました。しかし、且元は大坂城で豊臣秀頼の補佐役を務めたため、実際には貞隆が城を守っていたと考えられています。慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件が起こり、片桐且元は豊臣家と袂を分かつこととなり、茨木城もその後の情勢変化の中で取り壊されることとなりました。

茨木城の廃城

江戸幕府による「一国一城令」によって、摂津では高槻城のみが残されることとなり、茨木城は元和2年(1616年)に解体され、約200年続いた歴史に幕を下ろしました。この際、城の門や石垣の一部は周辺の神社や寺院に移築され、現在もその面影を残しています。

茨木城の遺構と復元

茨木市内には、かつて茨木城にあった城門がいくつか移築されて残されています。例えば、茨木神社には東門として搦手門が移築され、また茨木小学校前には櫓門が復元されています。こうした遺構は、茨木城の歴史を感じさせる貴重な文化財として、地域の人々に親しまれています。

元茨木川緑地

茨木城の周辺には、かつて茨木川と安威川が流れており、この茨木川が堀の役割を果たしていました。しかし昭和24年(1949年)に茨木川は廃川となり、その跡地は現在「元茨木川緑地」として整備されています。この緑地は茨木市民の憩いの場となり、茨木城があった当時の景観を一部再現しています。

茨木城の推定城郭と復元

茨木城は発掘調査が限られており、その正確な構造は明らかではありませんが、東西約220m、南北約330mの範囲を有していたと考えられています。茨木神社の石垣も、茨木城から移築されたものであるとされ、当時の城の風格を伝える貴重な遺構です。また、茨木小学校には本丸跡の標石が立てられ、城の歴史を後世に伝えています。

茨木城跡の観光ポイント

茨木城跡には、城の歴史を感じさせる遺構が点在しています。茨木神社の搦手門や茨木小学校の櫓門は、かつての城の姿を偲ばせるもので、観光客にも人気のスポットです。また、元茨木川緑地は四季折々の自然が楽しめる場所として、市民に親しまれており、散策コースとしてもおすすめです。

まとめ

茨木城は、かつての栄華を物語る歴史ある城であり、数多くの武将たちの支配や戦いの舞台となってきました。現代ではその姿をほとんど残していませんが、茨木神社や茨木小学校などに移築された遺構が、城の歴史を今に伝えています。歴史好きの方には、茨木市内のこうした遺構を巡りながら、かつての茨木城の面影を感じていただきたいと思います。

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名称
茨木城
(いばらきじょう)

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