立地と基本情報
下赤坂城は標高185.7メートル、比高61.4メートルの場所に位置していました。遺構はほとんど残っていないものの、現在の千早赤阪村役場裏手付近が主郭(本丸)であったとされています。また、千早赤阪中学校の裏手には石碑が立ち、訪れる人々にこの地の歴史を伝えています。
国指定の史跡
昭和9年(1934年)3月13日、「赤阪城跡」として国の史跡に指定されました。さらに、楠木七城の一つとして、楠木正成が築いた複数の城郭の一部としても注目されています。現在では、周囲の棚田の風景とともに、歴史散策の名所となっています。
歴史と重要な出来事
元弘の乱と下赤坂城
下赤坂城は、元弘の乱における重要な舞台となりました。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で挙兵した際、楠木正成もこれに呼応し、この地で挙兵しました。鎌倉幕府軍に対して奇策を駆使しながら奮戦したものの、急ごしらえの城であった下赤坂城は落城。正成は金剛山に潜伏しました。
再挙兵とその後の戦い
翌元弘2年(1332年)、楠木正成は下赤坂城を奪還し、再び挙兵しました。しかし、再度の落城を余儀なくされ、楠木軍は上赤坂城や千早城へと後退し、抗戦を続けました。この一連の戦いは、幕府側に大きな打撃を与え、全国的に倒幕の機運を高める契機となったとされています。
南北朝時代の役割
南北朝時代には南朝方の拠点としても使用されました。しかし、延文5年(1360年、正平15年)には落城。周辺の金剛山には、上赤坂城をはじめとする出城群が築かれ、赤坂城塞群として地域を防衛していました。これらの戦いの模様は『太平記』にも詳しく記されています。
下赤坂城の戦いに見る楠木正成の奇策
奇策と幕府軍の迎撃
『太平記』によれば、楠木正成は様々な奇策を用いて幕府軍を撃退しました。二重塀を利用した戦術や、熱湯の使用、大木を投下する攻撃法などが挙げられます。例えば、幕府軍が塀を乗り越えようとした際、楠木軍は仕掛けていた塀を切り落とし、700人以上の敵兵を討ち取ったとされています。また、柄杓で熱湯をかけるという戦法でも、多くの敵兵に被害を与えました。
落城と楠木正成の脱出
幕府軍は力攻めを諦め、兵糧攻めを選択しました。しかし、急ごしらえの城で長期戦に備えられなかった楠木正成は、自ら下赤坂城に火を放ち、密かに脱出します。この際、幕府軍は楠木正成が自害したものと誤解しましたが、実際には楠木軍は次の戦いへ向けて動き出していました。
観光地としての下赤坂城跡
棚田の風景
下赤坂城址周辺には、日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田が広がっています。この棚田は四季折々の風景を楽しめるスポットとして、多くの観光客を魅了しています。特に、稲穂が黄金色に輝く秋の景色は一見の価値があります。
石碑と歴史の足跡
千早赤阪中学校の裏手には下赤坂城の石碑が建てられています。城の歴史を感じられるこの場所は、歴史好きの方々にとっても見逃せないポイントです。
周辺の関連スポット
千早城と上赤坂城
千早赤阪村には、下赤坂城とともに歴史的な価値のある千早城や上赤坂城も存在します。これらの城跡も訪れることで、当時の戦乱の様子をより深く理解できます。
千早赤阪村立郷土資料館
千早赤阪村立郷土資料館では、楠木正成や南北朝時代に関する展示が充実しており、地域の歴史について学ぶことができます。下赤坂城訪問の際には、ぜひ立ち寄ってみてください。
アクセス情報
下赤坂城跡へのアクセスは、公共交通機関や車を利用して訪れることができます。最寄り駅からはバスや徒歩で到達可能で、歴史散策や写真撮影を楽しむのに最適な場所です。
まとめ
下赤坂城は、歴史的価値と自然の美しさを兼ね備えた魅力的な観光地です。楠木正成の戦いに触れつつ、美しい棚田の景色を楽しめるこの地は、歴史愛好家だけでなく自然を愛する方々にもおすすめです。