河内大塚山古墳は、大阪府羽曳野市と松原市にまたがる場所に位置する、形状が前方後円墳の古墳です。その規模は日本国内でも第5位の大きさを誇り、古墳時代後期の大和王権による大王墓と考えられています。
河内大塚山古墳は6世紀後半に築造されたとされ、大和王権の大王墓の一つと考えられています。しかし、学術的な発掘調査が行われていないため、被葬者は特定されていません。宮内庁によって「大塚陵墓参考地」として管理されており、第21代雄略天皇の陵墓候補地とされています。
この古墳は、古墳時代後期に見られる特異な「剣菱形」と呼ばれる形状を持っています。前方部の中央がやや外側に突き出して角ばった構造が特徴的です。また、埴輪が設置されていない点も他の古墳と異なります。
埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされ、盛土の低さや周濠の浅さから未完成の状態で被葬者が埋葬された可能性も指摘されています。
河内大塚山古墳には、雄略天皇陵という伝承があるほか、敏達天皇が磯長陵から改葬されたという説もあります。一方で、欽明天皇陵として計画されたものの、改めて大和盆地に陵墓が築かれたため放棄されたという説もあります。
河内大塚山古墳は古市古墳群の一部とされる最後の巨大前方後円墳で、その規模は次の通りです。
この規模は全国で大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、備中造山古墳に次ぐ5番目の大きさです。
大正時代までは墳丘内に村が存在し、住民が生活していました。しかし、1925年に陵墓参考地に指定されると住民は立ち退きを余儀なくされました。その後、1932年に陵内への立ち入りが禁止され、現在では宮内庁の管理下に置かれています。
河内大塚山古墳へのアクセスは以下の通りです。
河内大塚山古墳は、大阪みどりの百選にも選定されており、周辺の自然を楽しみながら歴史に触れることができます。また、古市古墳群や百舌鳥古墳群との関連を考えると、古代の日本文化や政治の中心地についての理解を深める貴重な場所でもあります。
河内大塚山古墳は、その規模や歴史的背景、特異な構造から、古墳時代後期の大和王権の文化を知る上で重要な史跡です。アクセスが良く、自然と歴史を同時に楽しめるスポットとして、多くの観光客に訪れる価値があります。