高貴寺は、大阪府南河内郡河南町に位置する高野山真言宗の寺院です。山号は神下山(かみおろしやま)と称し、本尊として五大明王を祀っています。境内は大阪府指定の史跡に登録されており、歴史的価値の高い文化財を有する寺院として広く知られています。
高貴寺の創建は、文武天皇の勅願により役行者(えんのぎょうじゃ)によってなされたと伝えられています。この地は古くから底筒男命(そこつつのおのみこと)が降臨したとされ、当初は「神下山香花寺(こうげじ)」と呼ばれていました。
平安時代の弘仁年間(810年〜824年)には空海がこの地に訪れ、高貴徳王菩薩の示現を目にしたことから、寺名を「高貴寺」と改めました。その後、金堂や講堂、東西両塔、経蔵、鐘楼堂、大門などの堂宇が建立され、本尊として五大明王が安置されました。
鎌倉時代末期には、後醍醐天皇より鎌倉幕府調伏の祈祷を命じられるなど、重要な役割を果たしました。しかし、元弘元年(1331年)、平岩氏と幕府軍の戦いに巻き込まれ、堂宇は焼失してしまいました。翌元弘2年(1332年)に金堂が再建され、寺門六坊も復興されましたが、その後は衰微の一途をたどります。
江戸時代の安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺すると、郡山藩主柳沢保光の支援を受けて堂宇の整備が行われました。慈雲は当寺を真言律と梵学の修行道場とし、戒壇を設けて「正法律高貴寺一派」の総本山としました。天明6年(1786年)には江戸幕府から正式な認可を得ています。
明治時代に入ると、神仏分離政策により、当寺と鎮守社である磐船神社が分離されました。それでも堂宇は破壊を免れ、金剛峯寺の末寺として現在に至っています。
当寺は明治時代の女流歌人・石上露子とも縁が深い地です。没後50年を記念して、2009年10月8日に歌碑の除幕式が行われました。
寺の西側には、聖徳太子ゆかりの「岸の桜井」という名所があります。
所在地:大阪府南河内郡河南町平石539
最寄り駅:近鉄長野線「富田林駅」下車後、金剛バス「平石行」終点より徒歩約1km