葛井寺は、大阪府藤井寺市藤井寺に位置する真言宗御室派の寺院で、西国三十三所の第五番札所です。その歴史は古く、7世紀頃に百済系の王仁氏の子孫である葛井連(むらじ)の氏寺として建立されたと伝えられています。
紫雲山という山号を持ち、日本最古とされる十一面千手観世音菩薩(千手観音)を本尊としています。この寺院は聖武天皇の勅願により、神亀2年(725年)に創建され、開山は行基によるものと伝えられています。
葛井寺の本尊は、特別な信仰対象である十一面千手観世音菩薩です。これに対して唱えられる本尊真言は「おん ばざら だらま きりく そわか」であり、御詠歌には「参るより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに紫の雲」とあります。これらの言葉は、寺院の深い歴史と信仰を象徴しています。
寺伝によると、行基が創建し、聖武天皇より「古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)」の勅号を受けたとされています。ただし、奈良時代の養老4年(720年)には、白猪氏から改姓した葛井連によって一族の氏寺として建立されたと考えられています。この一族は百済の王辰爾に由来する氏族で、日本書紀にはその功績が記録されています。
大同元年(807年)、葛井氏出身の藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の皇子である阿保親王によって寺院が再建されました。また、阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営したとされています。このように、葛井寺は古代から中世にかけて多くの支援を受け、繁栄を遂げました。
室町時代には興福寺の末寺として栄え、薬師寺式伽藍配置が特徴的でした。しかし、明応2年(1493年)の兵火や永正7年(1510年)の地震で多くの堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建によるものです。南大門として建てられた重要文化財の四脚門は、慶長6年(1601年)に豊臣秀頼によって建立されました。
葛井寺の本尊である乾漆千手観音坐像は、神亀2年(725年)に聖武天皇が厄除けを祈願して造立された日本最古の千手観音像です。文字通り「千の手」と「千の目」を持つ大変貴重な国宝です。この像は日本で唯一、実際に千本以上の手を持つ千手観音として知られ、1041本もの手を持つ「真数千手」で、全国的にも非常に珍しいものです。それぞれの掌には目が描かれており、その造形美は天平彫刻の最高傑作のひとつとされています。この千手観音像は、毎月18日の縁日に開帳され、特に多くの参拝者が訪れます。
本体は脱活乾漆法で制作され、大小の脇手は木心乾漆法を用いています。X線調査によれば、天平前期の乾漆像特有の構造が確認されています。脇手には眼が描かれていた痕跡があり、像の背後に立てられた支柱によって支えられていますが、正面からは千手が像本体から生えているように見える工夫が施されています。
この像は、天平12年(740年)の藤原広嗣の乱鎮圧を祈念して造立されたという説もあります。また、2018年には東京国立博物館で特別公開され、大きな注目を集めました。
葛井寺の境内には、数多くの歴史的建造物や文化財があります。
本堂は宝暦3年(1753年)に上棟され、安永5年(1776年)に竣工しました。その優雅な構造は、江戸時代の建築美を伝えています。
慶長6年(1601年)に豊臣秀頼によって再建された西門は、現在の場所に移築されました。この門は四脚門と呼ばれ、切妻造の本瓦葺きで、歴史的価値が高い重要文化財です。
境内には、楠木正成にゆかりのある「旗掛けの松(三鈷の松)」があります。楠木正成が戦勝祈願のために訪れた際、三人の息子に「この松葉のように三人力を合わせて励め」と誓わせたという伝承があります。この松の三葉を持つことで力が得られるとの言い伝えもあります。
葛井寺の千手観音像は、頭上に十一面をいただき、1041本の手を持つ姿が特徴です。この像は日本における千手観音像の中でも特に珍しく、その彫刻技術は天平時代の粋を集めたものとされています。
西門(四脚門)が指定されており、その歴史的価値は高く評価されています。
毎月18日に行われる観音会では、本尊の千手観音像が開帳されます。特に1月18日の「初観音会」や8月9日の「千日まいり」は、多くの参拝者で賑わいます。「千日まいり」では四万六千日の功徳が得られるとされ、本尊が特別に開帳されます。
葛井寺は近鉄南大阪線「藤井寺駅」から徒歩約5分の便利な場所にあります。車の場合は西名阪道藤井寺ICから府道12号を西へ進み、小山交差点を左折してNTT南まで600mです。
葛井寺はその壮大な歴史と文化的価値から、多くの参拝者を魅了し続けています。本尊の乾漆千手観音坐像をはじめとする貴重な文化財や、美しい境内の景観は訪れる価値があります。歴史と信仰の深さを感じながら、心静かに寺院の魅力を堪能してみてはいかがでしょうか。