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土佐稲荷神社

(とさ いなり じんじゃ)

歴史と桜が彩る都会の鎮守

土佐稲荷神社は、大阪市西区に鎮座する神社で、歴史的な背景から、三菱グループの守護神としての役割を持っています。江戸時代の土佐藩蔵屋敷の鎮守社としての起源、岩崎弥太郎と三菱財閥との深い関わり、そして堺事件との関係など、日本の歴史と深く結びついた神社です。都会の中にひっそりと佇む、歴史と自然が調和した空間です。

神社の創建と歴史

創建の由来

土佐稲荷神社の創建については正確な記録が残されていないものの、長堀川畔の土佐藩(現・高知県)蔵屋敷に古くから鎮座していたと伝えられています。天正年間(1573年-1593年)の創建とも、明和7年(1770年)に伏見稲荷から勧請されたものともいわれています。

山内豊隆と土佐藩の関わり

享保2年(1717年)、土佐藩主の山内豊隆が社殿を造営し、藩の鎮守社として建立しました。それ以来、山内家は参勤交代の際に必ず当神社に参拝し、社殿の修繕も藩費で行われました。

堺事件との関係

慶応4年(1868年)、堺事件が発生しました。この事件は、土佐藩兵がフランス帝国兵と衝突し、多数のフランス兵が死亡したことに端を発します。その後、明治政府はフランス側の要求に応じ、20名が切腹することになり、当神社で籤を引いて11名が選ばれました。しかし、死刑執行中にフランス側からの要請で9名が助命されました。

岩崎弥太郎と三菱との関わり

譲渡と社殿の造替

明治時代初期、土佐藩の蔵屋敷とともに土佐稲荷神社は岩崎弥太郎に譲渡されました。岩崎弥太郎はここで三菱の祖業である海運事業を展開し、三菱財閥の発祥の地となりました。その後、岩崎の手によって社殿の再建が行われ、神社は郷社に列格し、三菱グループの守護神としての地位を確立しました。

戦争の被害と再建

1945年の大阪大空襲により、土佐稲荷神社は社殿を焼失しました。戦後、1993年に三菱グループの寄進により、社殿が再建されました。現在でも、灯籠には焼失時の痕跡が残っています。

主祭神と境内の施設

主な祭神

境内施設

境内の東側には岩崎弥太郎の邸宅跡を示す碑があります。また、三菱グループの象徴である「スリーダイヤ」が神紋に用いられており、三菱の多くの企業が玉垣を寄進しています。第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐像も現存しています。

桜の名所としての土佐稲荷神社

土佐稲荷神社は桜の名所としても有名です。江戸時代より「摂津名所図会大成」にも記録されるほどの人気を誇り、境内の桜は春になると多くの参拝者を集めます。宝井其角の句碑「明星や桜定めぬ山かつら」も境内に立っています。

戦時中に一度すべての桜が焼失しましたが、戦後に植えられた若木が成長し、現在では再び桜の名所として多くの人々を魅了しています。

交通アクセス

地下鉄千日前線「西長堀駅」下車後、西へ徒歩約2分

まとめ

土佐稲荷神社は、歴史的背景や三菱財閥との関わりを持つ神社であり、桜の名所としても親しまれています。大阪市西区という便利な場所に位置し、参拝や観光に訪れる人々にとって魅力的なスポットです。長い歴史を感じながら、春には満開の桜を楽しむことができるこの神社を、ぜひ訪れてみてください。

Information

名称
土佐稲荷神社
(とさ いなり じんじゃ)

心斎橋・難波・天王寺

大阪府