祭神
坐摩神社の祭神は「坐摩神」として総称される5柱の神々です。それぞれ井水や家の神、旅の神としての役割を持ち、以下のように分けられます:
- 生井神(いくゐのかみ) - 生命力を象徴する井戸水の神。
- 福井神(さくゐのかみ) - 幸福と繁栄を象徴する井戸水の神。
- 綱長井神(つながゐのかみ) - 深く清らかな井戸水の神。
- 波比祇神(はひきのかみ) - 屋敷神で庭の守護神。
- 阿須波神(はすはのかみ) - 足元の守護神で、特に旅行安全の神。
歴史
神功皇后による創建
坐摩神社の起源は、神功皇后が三韓征伐から帰還した際に遡ります。淀川河口の地で坐摩神を祀り、花を献じたことが始まりとされます。この出来事は現在の「献花祭」の由来としても知られています。
応神天皇3年には正式な社殿が建てられ、現在も旧社地には「神功皇后の鎮座石」と呼ばれる巨石が祀られています。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社として記載され、摂津国一宮を称えています。また、『万葉集』には、旅の安全を願う防人たちが坐摩神社に祈りを捧げた歌が収録されています。
渡辺津の守護神としての役割
創建当初、坐摩神社は現在地ではなく、淀川河口付近の渡辺津、窪津、大江と呼ばれる地域に鎮座していました。この地は平安時代に摂津国の国府が置かれていた石町に該当し、町名「石町」は国府の転訛に由来しています。
渡辺氏の誕生と発展
平安時代後期には嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に居住し、渡辺氏を起こしました。その子孫は武士団「渡辺党」として発展し、水軍として瀬戸内海を中心に全国へ勢力を広げました。
熊野古道とのつながり
渡辺津は熊野古道の基点としても重要な役割を果たしました。熊野三山への参詣道沿いに立つ「熊野九十九王子」の最初の「窪津王子」は、坐摩神社行宮の場所とされています。
船場への移転
豊臣秀吉による遷座
天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際、坐摩神社は現在の船場に遷座しました。この地は商業地として発展し、特に古着屋が多く集まり、「坐摩の前の古手屋」として名高くなりました。上方落語にも「古手買」や「壺算」などで登場するほどです。
寄席発祥の地
初代桂文治が坐摩神社で初めて寄席を開いたことにちなみ、2011年には「上方落語寄席発祥の地」として記念碑が建立されました。
明治以降の発展
官幣中社への昇格
明治元年(1868年)には明治天皇が当社を訪れ、相撲を天覧されました。1936年には官幣中社に昇格し、壮麗な新社殿が造営されました。この社殿は1945年の大阪大空襲で焼失しましたが、1960年に鉄筋コンクリートで再建されました。
現在の坐摩神社
現在の坐摩神社は、歴史的な背景を大切に守りながら、地域の信仰と文化の中心地として機能しています。陶器祭りや寄席の発祥地としての役割など、伝統行事も引き続き行われています。
社殿と境内
本殿と拝殿
現在の本殿と拝殿は、1960年に鉄筋コンクリート造で再建されました。この際、外観は1936年のものを忠実に模倣しています。また、境内には「陶器神社」「稲荷神社」「繊維神社」など、周囲の商人たちからの信仰を集める摂末社が数多く存在しています。
摂末社
- 陶器神社 - 陶器問屋の守護神として信仰されており、火防陶器神社とも呼ばれます。
- 繊維神社 - 繊維問屋の守護神。
- 浪速神社 - 浪速区にあり、坐摩大神と猿田彦大神を祭神としています。
行事と文化
坐摩神社では、さまざまな伝統行事が行われており、中でも陶器祭りは特に有名です。境内には、「上方落語寄席発祥地顕彰碑」が設置されており、初代桂文治がこの神社で寄席を開いた故事に基づき、2011年に上方落語協会によって建立されました。
御神紋「鷺丸」の由来
坐摩神社の御神紋は白鷺で、神功皇后が坐摩神の教えにより、白鷺が群がる地を選んで坐摩神を奉斎したことに由来します。この伝承は神社の象徴的な要素として現在も大切にされています。
地名としての「渡辺」
坐摩神社がある「久太郎町四丁目渡辺」という町名は、「渡辺」という街区符号が付けられている点が特異です。渡辺津から移転したことを記念して「北渡辺町」「南渡辺町」と呼ばれていましたが、地名の変更により消滅する予定でした。そこで「全国渡辺会」が反対運動を行い、結果として町名の中に「渡辺」を残す形で調整されました。
アクセス情報
坐摩神社は大阪市の中心部に位置しており、公共交通機関を利用してのアクセスも便利です。大阪メトロ本町駅から徒歩約5分の場所にあり、多くの参拝者や観光客が訪れます。
歴史ある坐摩神社は、都会の喧騒の中にあっても静寂を保ち、訪れる人々に癒しを与える存在です。古くから大阪の人々に親しまれ、地域の守護神として今なお篤い信仰を集めています。