飛田新地の成り立ち
遊廓の誕生
飛田遊廓は、1912年(明治45年)に発生した難波新地乙部遊廓の火災が契機となって誕生しました。焼け跡での妓楼再建が許可されなかったため、天王寺村に新たな遊廓地が指定され、1916年(大正5年)に正式な遊郭として営業が始まりました。この地域には「阪南土地建物会社」が道路や建物を整備し、遊廓の基盤を整えました。
反対運動も起こり、同年10月には大阪婦人矯風会が母親デモを行いましたが、開廓は1918年(大正7年)12月に正式に行われ、当時58戸の妓楼が営業を開始しました。昭和初期には200軒以上の妓楼が立ち並び、娼妓は約2700人にのぼりました。
遊廓の特徴
『全国遊廓案内』(1930年)によれば、飛田遊廓は大阪市住吉区山王町四丁目に位置し、木造の貸座敷が縦横に並びました。料金は時間や時間帯によって異なり、例えば午後6時から12時までは5円25銭が相場でした。主な妓楼には「秋津楼」や「大和楼」などがあり、関西地方の重要な花街として知られました。
戦後の変化と赤線時代
第2次世界大戦後、飛田遊廓は一部が戦災を免れ、「赤線」として特殊飲食店街に指定されました。しかし、1958年の売春防止法の施行により、遊廓は形式上「料亭」へと転換されました。飛田新地では現在も料亭という名目での営業が続いています。
名所・旧跡
飛田遊廓跡には、現在も多くの歴史的な場所が残されています。
- 飛田大門跡:ガス灯を模した照明の付近に位置し、遊廓の門の跡が見られます。
- 鯛よし百番:かつての妓楼を改装した料亭で、2000年に国の登録有形文化財に指定されました。
- 慈母観音:地域の歴史を象徴する観音像。
まとめ
飛田遊廓は、大正時代から現代まで日本の風俗文化の変遷を映し出す象徴的な場所です。戦後の規制や法律の変化に適応しながらも、独自の営業形態を維持し続けている点は興味深いものです。歴史的建造物が現存し、往時の雰囲気を感じられます。