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綱敷天神社

(つなしきてん じんしゃ)

綱敷天神社は、大阪市北区神山町にある歴史ある神社です。通称としては北野天神や喜多埜天神とも呼ばれており、特に旧西成郡北野村を氏地としています。また、茶屋町には御旅社が、角田町には境外社である歯神社があります。

祭神

綱敷天神社の主祭神は、嵯峨天皇と菅原道真です。この二柱の神々は、日本の歴史や文化に深く関わり、特に学問の神として知られる菅原道真は、多くの人々に崇敬されています。

神社の歴史

創建の起源

綱敷天神社の歴史は平安時代に遡ります。社伝によれば、弘仁13年(822年)に嵯峨天皇が摂津国菟餓野(現在の大阪市北区)を訪れ、その際に頓宮が神山町の地に設けられました。嵯峨天皇の皇子である源融は、天皇の崩御後、追悼の意を込めて太融寺を創建し、次いで嵯峨天皇を祀る「神野太神宮」を建立しました。これが現在の綱敷天神社の始まりとされています。

菅原道真との関わり

昌泰4年(901年)、無実の罪で大宰府に左遷された菅原道真がこの地に立ち寄りました。彼が船の艫綱をたぐり寄せて座ったことが「綱敷」の名の由来です。道真は紅梅の花を眺め、地元の人々が団子を盛った「ゆりわ」をもてなされたことに喜び、その後もこの風習が神事の一環として継承されています。

梅塚天満宮の由来

道真が去った後、その地に住む人々は彼を偲び「梅塚天満宮」を建立しました。この地が現在の茶屋町にある御旅社となり、さらに「梅田」の地名の由来ともされています。

道真の神霊の合祀

正暦4年(993年)、菅原道真の冤罪が晴れ、太政大臣の位が追贈されました。この時、嵯峨天皇を祀る神野太神宮に道真の神霊が合祀され、現在の綱敷天神社となりました。

再建と社殿の歴史

南北朝時代の戦乱や第二次世界大戦中の空襲により、綱敷天神社は度々被災しましたが、地域の支援と神職である白江家の尽力により、社殿は再建されました。特に昭和20年の大阪大空襲では、本殿の裏にあった神山が爆撃で失われましたが、1956年に社殿が再建されています。

年間の主な祭事

綱敷天神社では、年間を通じて多くの祭事が行われています。以下は代表的なものです:

境内の施設

綱敷天神社の境内には、いくつかの特徴的な建造物があります:

末社と御旅社

喜多埜稲荷神社

綱敷天神社の末社である喜多埜稲荷神社は、宇迦之御魂大神を祀っており、1962年に再建されました。

白龍社

白龍社は白龍大神と猿田彦大神を祀る末社で、同じく境内にあります。

歯神社

境外社の歯神社は、特に「歯痛止め」の御利益があるとされ、地元の人々に信仰されています。2000年に放火されましたが、翌年には再建されました。

綱敷天神社の文化的な役割

綱敷天神社は、地元の歴史や文化とも深い関わりを持っています。特に菅原道真との縁から、学問の神としても信仰され、多くの受験生や学業成就を祈願する人々が訪れます。また、地名の「梅田」にも関わる由緒ある神社であり、地域のシンボル的存在です。

アクセス情報

綱敷天神社は、以下の交通機関からアクセスが便利です:

地域の歴史と文化を感じることができる綱敷天神社は、大阪市内でも特に見逃せないスポットの一つです。学業成就や歴史的背景に興味がある方には、ぜひ訪れていただきたい場所です。

Information

名称
綱敷天神社
(つなしきてん じんしゃ)

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