橋の歴史と沿革
初代から現代までの変遷
1909年(明治42年)、新淀川に架かる最初の橋として、東海道本線の橋を転用した初代の長柄橋が完成しました。その後、1936年(昭和11年)に2代目へと架け替えられますが、1945年の終戦間近にはアメリカ海軍艦載機の攻撃に遭い、多数の死者を出す「長柄橋惨事」が発生しました。戦後は補修工事が行われ、さらに1964年には交通量の増加に対応するために長柄バイパスが増設されました。
現在の長柄橋は、1973年から始まった掛け替え工事の末、1983年に完成し、地域の重要なインフラとして機能しています。
古代の長柄橋と伝説
「長柄橋」の名前は、古代の文献にも登場します。嵯峨天皇の御代、弘仁3年(812年)に架けられた橋が長柄橋であったとされますが、場所は現在の橋とは異なり、淀川区東三国付近と吹田市の間にあったと伝えられています。この橋は数十年後に洪水で失われ、中世には再建されることなく、文学作品の中で幻想的な存在として詠まれるようになりました。
文学に残る長柄橋
多くの和歌や詩歌において、長柄橋は「朽ちた橋」として象徴的に描かれています。たとえば、赤染衛門は次のように詠みました。
わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき
また、鎌倉時代の歌人・藤原家隆も、この橋を歌に残しています。
君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん
人柱伝説
長柄橋には、人柱伝説が伝えられています。橋の建設が難航した際、人柱を立てることで工事を成功させたという物語です。ある男が妻と子供を連れて橋の近くを通りかかった際に、「袴のほころびをつづった者を人柱にすればよい」と冗談交じりに話したところ、自分がその条件に合致してしまい、人柱にされてしまったという悲劇です。
伝説の広がりと影響
この伝説は後にさまざまな形で語り継がれ、江戸時代には随筆などにも取り上げられました。また、この話から「口は災いのもと」ということわざも生まれています。現在でも、大阪市淀川区東三国の大願寺には、人柱を悼む碑が残されています。
祈念像と空襲犠牲者の慰霊
長柄橋の南側には「明倫観世音菩薩」の像が建てられています。この像は、1945年6月7日の空襲で亡くなった人々や淀川での水難事故の犠牲者の冥福を祈るために建立されました。
橋の基本情報
形式:バスケットハンドル型ニールセンローゼ形式
橋長:655.60m、長柄小橋43.10m
支間:最大153.00m
幅員:20.00m
着工:1973年(昭和48年)12月
完成:1983年(昭和58年)3月
工費:53億円
長柄バイパスの建設
長柄橋北詰交差点での交通渋滞を解消するために、立体交差のバイパスが設けられました。経済的観点から、バイパスは既存の橋の中腹から接続される特殊な構造が採用されています。
バイパス形式:3径間連続曲線鋼床版箱桁
橋長:358.93m
幅員:7.00m
着工:1964年(昭和39年)9月
完成:1981年(昭和56年)8月
長柄橋は、歴史と伝説に彩られた橋であり、大阪市の文化的な象徴の一つです。その壮大な構造と人々の思いが込められた物語が、多くの人々の記憶に刻まれています。