定専坊の歴史
創建の伝承
定専坊の起源は、もともと真言宗の寺院「西光寺」であったとされています。この西光寺は、奈良時代の高僧・行基によって開かれたと伝えられています。
1382年(永徳2年)、楠木正成の孫である楠木正勝が河内国赤坂城の没落後、隠居先としてこの寺に住まいを構えたことがきっかけで、浄土真宗との縁が深まりました。正成は本願寺の覚如に帰依しており、これが子孫にも影響を与えたのです。
宗派の変遷と蓮如の関わり
楠木正勝の孫にあたる掃部助が出家し、本願寺の存如より「浄願」という法名を授かり、浄土真宗に転じます。これを契機に、寺院は真言宗から浄土真宗本願寺派に改宗し、諸堂の造営が行われました。
1499年(明応8年)2月18日には、蓮如が定専坊で実如に遺言を伝えたとされ、その後、寺の名称を「定専坊」と改めました。「定専坊」という名は、蓮如が「一意専心」の精神を示すために名付けたものです。
戦乱と移転の歴史
1580年頃の織田信長と本願寺との石山合戦では、定専坊とその3世住職・了顕が多くの兵を率いて戦ったことが『石山戦記』に記録されています。その後、1647年(正保4年)には現在の「定専坊」という名称が正式に用いられるようになりました。
定専坊は、6世住職の信詮の時代に、大阪市北区天満にも一宇を建ててこれを兼務しました。さらに、1900年(明治33年)には淀川改良工事の影響で、もともとあった土地が川敷になるため、現在の東淀川区豊里に移転しました。
境内の見どころ
鐘楼と梵鐘
境内には歴史的な鐘楼があり、そこに吊るされている梵鐘は、かつて石山本願寺で使用されていたものと伝えられています。これは、寺の歴史が戦国時代の動乱と深く関わっていた証といえます。
五輪塔
境内には、楠木正勝、楠木正盛、楠木盛信のものと伝わる五輪塔が建てられています。これらの塔は、楠木一族の霊を弔うために建てられたとされ、訪れる人々に歴史の重みを感じさせます。
交通アクセス
定専坊へのアクセスは以下の通りです。
最寄り駅からのアクセス
- 阪急京都本線 上新庄駅から南に徒歩14分
- 大阪市営地下鉄 今里筋線 だいどう豊里駅から西に徒歩10分
定専坊の意義
定専坊は、地域の歴史や浄土真宗の発展に重要な役割を果たしてきた寺院です。蓮如や楠木一族といった歴史的な人物との関わりも深く、今なおその存在は地域の人々にとって欠かせないものとなっています。
また、戦国時代から明治時代にかけての様々な歴史の変遷を乗り越え、今日に至るまでその姿を保ち続けています。境内を訪れることで、訪問者は歴史や仏教文化の深さに触れることができるでしょう。